01 「見守り」の誤解
不登校・ひきこもりの書籍やイベントによく出てくる「見守り」。体験者がイベントで「周囲の大人たちが見守り、待ち続けたくれたので、今はこんなに自立した大人になりました」といった「不登校からの回復ストーリー」を話してくれることがありますが、そんな場面でよく登場するキーワードが「見守り」です。
しかし、「見守り」が他の不登校の親子にとっても有効とは限りません。不登校サポートの現場では、しばしば「親が口を出さない」「現状維持」「特に何もしない」「ひたすら待つ」のような意味で「見守り」が使われています。
見守りは本来「あとは見守っていればいいだけの状態」で初めて成立するものですが、「見守り」が独り歩きした結果、親の必要な関わりまで排除してしまい、「親子の没交渉化」が進んでしまう可能性が出てきました。親の関わりへの過度な反省は、親に自信を喪失させ、「親はできるだけ何もしないほうが子どものためなのだ」と理解させやすいでしょう。それで何が失われるのか?それは
「あって良かったはずの関わり」です。
02 「共感」の誤解
不登校・ひきこもりに関する書籍を読んでいると、しばしば「共感しましょう」というメッセージに出会います。実際、共感をもって子どもに接しようとしている大人は多いでしょう。その恩恵を受けた人もたくさんいるでしょう。しかし、共感は、しようと思って必ずできるほど簡単なものではありません。
「共感(エンパシー)」とは「本来は自分のものではない、他人の感情によって生じる代理的な感情体験」(心理用語集「サイコタム」より)です。感情体験ですから、他人の感情に近い感情が自らに湧き起らなくてはなりません。そうなると、「共感しやすい感情体験」と「共感しにくい感情体験」が出てくるはずなのです。
共感は「経験や立場や性格や価値観が近い人間どうしでは生じやすいが、経験や立場や性格や価値観が遠い人間どうしでは生じにくい」という特徴があります。共感力が高い人なら多くの人と共感することは可能かもしれませんが、全ての人間・全てのシチュエーションに共感できる人はいません。
つまり、「どうしても共感できない」ということは容易に起こり得ることなのです。問題は「共感しようと思ってもできなかった人が、共感が正解だと思って無理に共感しようとすること」です。共感は「感情体験」なので、無理に共感しようとした瞬間、共感ではなくなってしまいます。「共感が大切」という単純なアドバイスが、大量の「共感でないもの」を生み出している可能性があります。
「とにかく子どもの言っていることを否定せず、全てを肯定的に受け止め、感情を共有しているかのように振る舞う」ということをやってしまっている人は多いと思います。しかし、わが子を思うあまり、無理して「共感したふり」をしてしまうと、観察力の鋭い子どもは、「ウソ臭さ」を感じて不信感を抱くかもしれません。
共感は、しようと思って確実にできるほど簡単なものでなく、形ばかり演じればむしろ危険です。
03 「意志の尊重」の誤解
不登校を認めている場合、親は「学校に行きたくないという意志」を尊重しています。子のひきこもり状態を認めている場合も、親は「今は就労したくない」「新たな対人関係をつくりたくない」「外出したくない」といった「意志」を尊重していると言えます。
不登校やひきこもりに対して肯定的な人々は、しばしば「意志の尊重」の重要性を説いています。私も重要性に関しては同感です。しかし、この「意志の尊重」もまた、しばしば独り歩きしています。とくに明確な「意志」を持ちにくい子の頭に浮かぶのは、もっぱら刹那的な欲求や、面倒なことを避けたい欲求に関することです。
最たる例は、親が子どもの求めを何でも受け入れ、屈服している状態です。このようなケースの場合、従来は「親の甘やかしすぎ」とされてきましたが、もしかすると「意志の尊重を極端に実現しようとした結果」なのかもしれません。
善良で真面目な親が、わが子にひたすら寄り添おうとして「子どもが言ったこと」に従うことが「意志」だ誤解した結果、子どもの刹那的欲求にばかり対処してしまう状態になることは悲劇です。子どもはそのような親を信用しないからです。
似たものに「自己決定の尊重」があります。これは「あなた決めたんだから、あなたの責任だ」という「自己責任化」の恐れがあります。「意志の尊重」と「自己決定の尊重」の組み合わせが誤解のあるまま突き進むと、子どもからこう見えてしまうかもしれません。
「親はしっかり意志を尊重し、当人に任せているのできちんと対応しています。うまくいかないのは全て本人のせいです。」
誤解が親子間の断絶につながらなければいいのですが。
04 「傾聴」の誤解
「子どもの話に耳を傾けましょう」は、心理サポートの基本ですが、そのメッセージを単純に訴えすぎると弊害も生まれます。典型的なのは、「子どもの話を否定せずに最後まで聴くことが傾聴である」という理解をし、親が子どもの話を聞くときに「我慢しながら・苦痛を感じながら聴く」という状態に陥らせてしまうことです。
親は臨床心理の専門家ではないので、「否定しないで聴け」というメッセージに素直に従ってしまいますと、「子どもの話を肯定的に聴けない私はダメな親なのだ」「子どもが言うことに何でも従わなければならないのだ」などと誤解を生じてもおかしくありません。
とくに、子どもの発言に過激・悪質な内容が含まれていた場合、返答に窮してしまいます。たとえば、子どもが「死にたい」と言った場合、親は返答を迷うでしょう。そんなとき「『私メッセージ』が良い」と教える人もいます。「あなたはそう感じているのね。でも私は死んで欲しくはないのよ」という返事のしかたです。しかし、観察眼が鋭い子どもは、親が内心、何を思っているかを見逃しません。「わかったようなことを言っているけど、ありがちなテクニックで対応している」と受け取るかもしれません。
親に関心を持って話を聴いてもらいたい子どもは、うわべだけ聞いているふりをしてもらいたいわけではありません。「否定しないことが正解だから」という理由で受け止められても嬉しくありません。「とにかく傾聴すること」のような単純化した受け止め方をせず、傾聴にまつわるリスクについても考えなくてはなりません。
話している側は、ある程度吐き出してスッキリしてくると、今度は双方向のやりとりもしてみたくなってくるものです。そうなると、質問をしたりします。「お母さんはどう思う?」などと。そのとき、答えに詰まってしまうと「この人はただただ聞くだけで、何も考えてはいなかったんだ」と思うかもしれません。
適当に合わせてしまうと「本心とは違うことを言っている。信用できない」となるかもしれません。反対意見を述べれば「だったら、言わなきゃ良かった」となるかもしれません。はぐらかしても「そろそろ返事を聞いてもいい?」となるかもしれません。表面的かつ単純なテクニックで傾聴を用いることは危険です。
傾聴自体はとても大事なことで、心理療法家も日々研鑽を積んでいることです。安易な傾聴はかえって子どもからの信用を失う可能性があります。
05 「やりたいことを応援」の誤解
やりたいことを応援するのは、良い場合も多々あります。しかし、やみくもに子どもがやりたがることを応援するのはリスクがあります。注意しなくてはならないのは、「意志は常にひとつにまとまっているわけではない」ということです。「口から出てくるときにはひとつしか出てこないので、あたかもそれがまとまったものだと受け取られがち」なのです。
たとえば、「アルバイトをしてみたい」と子どもが親に言ったとします。この言葉を親がそのまま受け取って喜び、「ようやく動き出す気になってくれたか」と、アルバイト探しを積極的に応援したとします。「ハローワークに相談してみてはどうか?」「好条件な求人情報を見つけた」「経営者の知人に頼んでみようか?」など、たくさんの働きかけをするのは「わが子のやりたいことを応援するため」です。
ところが、「アルバイトをしてみたい」と言った子は、親が積極的に情報提供をしてくることに対し、反応が薄く、時に迷惑そうな顔をしたりするかもしれません。親はこう思うでしょう。「自分でアルバイトがしたいと言ったから応援したのに」と。
親は苛立ってくるかもしれません。そして「あなたがアルバイトをしたいと言うから、こっちは応援しているのに、一体いつになったらバイトをするの?」と怒りをぶつけてしまうかもしれません。このようなことは、口から出た言葉だけを聞いているせいで起きる悲劇です。
親は「アルバイトをしたい」という言葉にのみ反応しました。しかし、言葉以外の部分では「アルバイトをしてみたいとは思うが、いざやろうと思うと腰が引けてしまう」とか「自分はもう一生働けないのかもしれないと思って凹んでいる」といったニュアンスが含まれているのかもしれないのです。
社会的行動を避けがちな若者は、シンプルに「やりたい」「やりたくない」が分かれていないことも多く、「やりたいけど、不安がある」「避けたいけど、避け続けるのも嫌だ」「やりたくないが、やらないともっと大変なことになる」といった、矛盾した心のベクトルを抱えていることが多いものす。その場合、「口から出てきた言葉」だけを受け取り、その言葉を応援するということは、「相反する意志のうち、片方しか応援していない」ということになります。
06 「ありのまま」の誤解
「子どものありのままを受け止める」という言葉は、子育て本にはおなじみです。しかし、その月・その週・その日・その時間、子どもは変化しています。「ありのまま」は常に一定していません。「ありのまま」も「受け止める」も曖昧です。「現状をそのままに理解する」という表現の方がわかりやすいと思います。
たとえば「行きたい」と「行きたくない」が共存していたら、「あの子は、行きたい気持ちと行きたくない気持ちが共存していて、葛藤している」と理解します。その場合、行くことも行かないことも応援せず、「葛藤」にこそ着目すべきでしょう。
家の中で過ごしている様子が「ありのままか」と問えば、本人の気持ちや考えはそれだけではないかもしれません。「あなたはずっと家の中にいてもいいのよ」の声掛けに激しく落ち込む可能性もあります。「自分はいつまでもずっとこうしていたいわけではない」と思っている人もいます。「当事者の一面だけで決めつけないこと」が大切です。
07 明るい不登校になれなくても当然
不登校やひきこもりの体験談に、以下のようなものがよくあります。
「学校が辛くて不登校になった」
⇩
「不登校しても辛かった」
⇩
「〇〇の考えに触れて不登校を前向きに考えるようになった」
⇩
「今は明るくやっています」
という、「発想の転換」→「明るい不登校」というパターンです。
日本の不登校は「学校に通うつもりだったのに不登校になってしまった」という生徒が圧倒的に多いのが特徴です。つまり、「『明るい登校』がしたかったのに不登校になってしまった」という生徒のほうが圧倒的に多いわけです。
そうなりますと、「不登校はむしろチャンス」といった明るい発想への転換を促す前に、「明るい登校ができず、暗い不登校になってしまったこと」に対して私たちは立ち止まって考えるべきではないでしょうか。
小中学校への登校は子どもから見れば「事実上の半強制状態」であり、自由に選べる状態ではありません。日本では、楽しく通学する生活を送りたかった多くの子どもたちが不登校になっているわけです。そうなりますと、当事者の多くが実感することは「落ちこぼれてしまった」ということです。「自分なりに頑張ったけど、なじめなかった」という状態です。
そこへ「暗く考えていないで、明るく考えていきましょう」という働きかけをしても、気持ちがついていかない子どもは多いことでしょう。そこには周囲の大人たちに何かが欠けている気がします。その何かとは「無念さ」「残念さ」「悔しさ」「理不尽に対する怒り」「悲しみ」「自責感」などへの想像力ではないでしょうか。
「明るく前向きに考えましょう」と当事者にメッセージを送る前に、無念さ・悔しさ・悲しみを理解するところから始めるべきではないでしょうか。明るい不登校になれなくても、当然なのです。
08 選択肢のない子どもたち
「学校」
「教育支援センター(適応指導教室)」
「フリースクール」
「学びの多様化学校(不登校特例校)」
「インターナショナルスクール」
など
これらは「通所に抵抗がある子どもたち」にとって、選択肢ではありません。ぽっかり空いた穴に落ちてしまった子どもたちには、選択肢が無いのです。
そうした「選択肢のない子どもたち」が利用を勧められやすいのは、医療やカウンセリングです。しかし、医療やカウンセリングで、リアルな人間関係や進路といった教育ニーズを満たすのには無理があります。
よく不登校に対する批判に「学校は勉強だけじゃない。人間関係を学ぶところでもある」とか「学校で我慢をすることを学ぶのも大切だ」といった意見があります。しかし、「学校で人間関係に対して、強烈な負のイメージを植え付られた子ども」「学校で我慢ばかりし続けていた子ども」は通所型施設を拒みやすいものです。
通所型に行けなくなってしまった子どもたちが「選択肢のない子どもたち」となり、「ひきこもり型不登校」になるしかない現状があります。
09 達観ではない
「自分には、ひきこもりを肯定したり、将来の心配をしないなどという達観はできない」ともし思われたら、それは誤解です。良くないと思っていることや危険だと思っていることを無理やり良いことや安全だと思いこむ必要はないんです。子育てを修行のように言う人がいますが、子育ては修行を修めた選ばれた人だけのものではありません。
「良いか悪いか」「危険か安全か」ではなく、「今はそうするしかない状態なのだろう」とか「そうやって自分なりに避難しているのだろう」といった「現状への理解」が必要なだけです。
「この心配を手放してしまったら、わが子が不幸になってしまうかもしれない」と思って心配を続けているのかもしれません。「わが子を不幸にしたくない」という思いは愛情ですから、持ち続けていいものだと思います。
ただ、子ども本人の操縦桿は子ども自身が握っていますから、親が子どもを心配するほどうまくいくわけではありませんよね。子ども自身が信用し、納得するのがいちばんです。
親から見ますと、「なぜこのような不合理な行動をとるのか」と疑問に思うかもしれませんが、子どもの視点から見ると「ベストではないものの、その条件下では総合的にベターな選択」だったりします。
つまり、「現状より総合的にベターな選択」ができたらいいわけです。しかし、信用できない相手の、納得できない説明では、どんな提案も受け入れるはずがありません。そうなると、親の脳裏には「強要」がよぎり、子は「拒絶」の態勢に入るでしょう。
「諦めるとは明らかに見るということだ」などと諦めを説く人もいますが、何かを諦めるということでもなく、人としてのステージを上げるといった修行でもなく、ましてや達観でもなく、「本人からしたら、今はそれが合理的なのだろうな」と想像してみるというだけのことです。
10 親へのサポートこそ重要
不登校の子どものうち、かなりの数の子どもたちは家庭を中心に過ごしています。医療機関や相談機関を利用したりしている子どもたちもいますが、ひきこもり状態の子どもが多数います。このような現状で、どんなに学校内外に居場所や専門施設を作ったとしても、その効果は限定的です。
文科省は今後、不登校特例校を300開校すると言っています。確かに「地域にそんな学校があれば転校したい」という児童生徒のニーズはあると思います。しかし、それは、
「起床後に外出の支度を整え」
「外出し」
「単独で公共交通機関を利用して移動し」
「長時間他人と過ごし」
「他人と同じ建物の中で食事をとり」
「課題や行事をやり」
「夕方になったら帰宅し」
「宿題や受験勉強をやる」
ような生活ができる児童生徒のニーズです。通所型施設を拒否している子どものニーズではありません。
そうなると、親へのサポートが、非常に重要になってきます。どんなに優れた専門家でも、当事者とコミュニケーションできなければ、関わる機会がありません。では、親へのサポートとは、どうあるべきでしょうか?
まず「親は子どもの対応に悩み、疲れているのだから、その心の疲れを癒して欲しい」というニーズが確実にあることでしょう。ただし、このニーズにばかり応えていますと、サポートが子どもに行き届かなくなることが考えられます。
親の心は複層的であり、その基底にはやはり子どもへの深い愛情があることがあります。しかし、不登校やひきこもりであるわが子に対し、日々の態度や言動を否定的に受け止めてしまう親は少なくありません。「怠惰」「弱虫」「慢心」など否定的解釈にはまり込むと、そうとしか見えなくなります。しかし、そのような否定的解釈が子どもに伝わりますと、子どもは、その奥にある親の愛情の層を見ることができません。親子で互いを否定する思いを抱きながら、同じ屋根の下で長時間過ごし続けることになれば、当然のように「できるだけ家の中で距離をとり、時間帯をずらす生活」になってしまうでしょう。
もっとも重要なサポートは、「親が子を否定的に解釈し、その考えが子に伝わり、親子が互いに否定し合う関係になることを防ぐサポート」ではないかと思います。
また、否定的に捉えることとは逆で、やたらとわが子や不登校、ひきこもり状態であることを肯定しすぎ、褒めまくってしまう親もいます。親は子どもを元気づけたい、勇気づけたい、子どもをいかに大切に思っているかを伝えたい、という愛情深い行動であっても、「不登校・ひきこもりのわが子をどうにか変えたい!」という「手段としての肯定」は、現状の子どもにとっては否定です。親の素直な気持ちがマイナスに作用してしまう悲劇が起きないようにしなくてはなりません。
不登校やひきこもりの子をもつ親は大変です。世間一般の考えを持ち込めば子どもとの間に深い溝ができて、会話もままならなくなることがあります。もし、「元気になって欲しい、せめてこれくらいはできないと将来損をするだろう」と思うことすら、わが子に拒否されてしまうとしたら、「いったい何をどうすればいいんだろう」ということになってしまうでしょう。
そんなときに思い出して欲しいのは「夜泣き」です。赤ちゃんの夜泣は、あやせば泣き止むというものではありません。母乳やミルクも飲まない、さました白湯も飲まない、涼しくしても温めても関係ない、声をかけても、動かしても、おもちゃを振っても泣き止まない・・・。
そんなときでも親はそばにい続けます。この「何かできているわけではないが、親しかしないようなこと」。このことにすごく価値があると思うのです。「こうすれば、ほらね」というようなことは、誰だってやってみるでしょう。しかし、そういうものがない中で見捨てることなく、ずっと気にかけている。その価値はとても大きいものです。そのような親を支えるということが、長い目でみますと、最大の効果を発揮するとわたしたちは思います。
11 通信制高校の進学で重視すべきこと
不登校が増えている理由として考えられるものはいくつかありますが、注目すべきは「単位取得の条件がユルい私立や株式会社立の通信制高校」です。全日制に比べて多くの生徒を受け入れることができるため、ほとんどの学校で選抜の必要がありません。「ほぼ全入」です。
中学の出席日数や内申点がゼロでも学力試験なしで入学できる通信制高校はたくさんあります(当会の提携先である通信制高校もそうです)。「小中学校に行かなくても高校に進学できる」「少ない出席日数で卒業できる」という事実は、多くの不登校児童生徒の保護者にとって安心材料となっていることでしょう。
しかし、不登校の背景に「過剰な対人・対社会不安」などがありますと、「スクーリングに参加できない」「高校卒業後に就学就労できず立ち尽くしてしまう」といったことが起きることが珍しくありません。また、大学や専門学校を卒業したり、就労したとしても、挫折を感じて辞めてしまい、再びひきこもってしまう可能性もあります。
したがって、ひきこもり型不登校で重視すべきは、単位取得や卒業資格よりも、不登校の背景となった以下のようなことではないでしょうか。
「過剰な対人・対社会不安があって踏み出せない」
「過緊張で心身が持たず続かない」
「完璧主義や白黒思考でうまくいかないことがあると激しく落ち込む」
「楽しいことや興味があること以外がすべて苦痛で続かない」
「辛いことを何度も思い出してしまい、意欲が続かない」
「自己否定が強く、すぐ傷ついて諦めてしまう」など
むしろ、上記のようなことを緩和するために通信制高校を使う、という発想が大切です。
12 「進路」の考え方 ~ほんとうに怖いのは再不適応~
一般的に「進路」と聞くと、「進学」や「就労」が浮かぶと思います。
しかし、「ひきこもり型不登校」に関しては、進路でいきなり進学・就労を意識するのはお勧めしません。「進路の取り組みが、新たな不適応を起こし、挫折経験となる可能性があるから」です。
そもそも、不登校をし、フリースクールなどの通所型施設に通わずにいるのは「社交的場面の回避行動をとっているから」です。そこをいきなり「進学・就労」で対応しようとすれば、自ずと「過敏さや回避傾向を温存する前提の進路選択」とならざるを得ません。
具体的に言いますと、高校なら「他人と接する機会が少ない集中スクーリング方式の通信制高校在宅ネットコース」を選びやすく、アルバイトでは「他人とコミュニケーションする機会が少ない年賀状の仕分けやポスティングや倉庫のピッキング等」を選びやすいでしょう。
大学に進学する場合でも、通学を避けようと通信制大学を選んだものの、通信制大学が通信制高校と違って「まったく不登校の受け皿ではなかったこと」に気が付いて退学する人がいます。
通学制の大学に入学しても、サークルや部活動には参加せず、もっぱら受け身で講義を受け、ひとりで食事をしながら過ごそうとしやすいでしょう。その結果、大きなギャップに出遭うのが「就活」、そして「就職後」です。
当事者親子としては、「通信制高校」→「大学・専門学校」→「アルバイト」→「就活」→「就職」の流れの中で、徐々に社会生活に慣れ、社会的経済的に自立することを期待することでしょう。
しかし、こうした進路計画に共通するのは、「ハードルの低い進学先・就労先を選ぶこと」と「社会生活の慣れがぶっつけ本番であること」です。「過敏さや回避傾向を温存したまま」「一般的なハードルとしては低いものの本人的には大きなチャレンジをし」「リアルな進学・就労先で適応をすべく努力する」という点が共通しています。つまり、適応チャレンジが「基本的にアウトソーシング(外注)」の形になっています。
このような進路計画は、当然、何割かが成功します。成功するので、チャレンジする人は後を絶ちません。そして、何割かが失敗します。「再不適応」です。
ひきこもり型不登校→通信制高校卒業→大学等に進学→アルバイト経験→就活→卒業→正社員として就職。けれども、温存し続けた「一般の人にはどうということもないストレスが過大に感じてしまう傾向」や「苦手を極端に回避しようとする傾向」が、再び不適応を起こし転職先を決めずに退職する、という形で現れることがあるのです。
いまどきは、通信制高校卒業や大学入学はそんなに難しいことではありません。私たちのサポートでは簡単な部類です。大事なのは「温存している過敏さや、極端な回避行動を緩和できるかどうか」です。
そう考えると、不登校やひきこもり行動というものは、非常に重要な情報を発しているわけです。その情報から何をくみ取り、どう対応するかで、再不適応を予防しやすくなるでしょう。