「ひきこもり型不登校」から「ホームエデュケーション」に。「イーズ・ホームエデュケーション・ネットワーク」

不登校・ひきこもり対応のヒント

01 「見守り」の誤解

不登校・ひきこもりの書籍やイベントによく出てくる「見守り」。体験者がイベントで「周囲の大人たちが見守り、待ち続けたくれたので、今はこんなに自立した大人になりました」といった「不登校からの回復ストーリー」を話してくれることがありますが、そんな場面でよく登場するキーワードが「見守り」です。

しかし、「見守り」が他の不登校の親子にとっても有効とは限りません。不登校サポートの現場では、しばしば「親が口を出さない」「現状維持」「特に何もしない」「ひたすら待つ」のような意味で「見守り」が使われています。


 見守りは本来「あとは見守っていればいいだけの状態」で初めて成立するものですが、「見守り」が独り歩きした結果、親の必要な関わりまで排除してしまい、「親子の没交渉化」が進んでしまう可能性が出てきました。親の関わりへの過度な反省は、親に自信を喪失させ、「親はできるだけ何もしないほうが子どものためなのだ」と理解させやすいでしょう。それで何が失われるのか?それは


 「あって良かったはずの関わり」です。

 

02 「共感」の誤解

不登校・ひきこもりに関する書籍を読んでいると、しばしば「共感しましょう」というメッセージに出会います。実際、共感をもって子どもに接しようとしている大人は多いでしょう。その恩恵を受けた人もたくさんいるでしょう。しかし、共感は、しようと思って必ずできるほど簡単なものではありません。

「共感(エンパシー)」とは「本来は自分のものではない、他人の感情によって生じる代理的な感情体験」(心理用語集「サイコタム」より)です。感情体験ですから、他人の感情に近い感情が自らに湧き起らなくてはなりません。そうなると、「共感しやすい感情体験」と「共感しにくい感情体験」が出てくるはずなのです。


 共感は「経験や立場や性格や価値観が近い人間どうしでは生じやすいが、経験や立場や性格や価値観が遠い人間どうしでは生じにくい」という特徴があります。共感力が高い人なら多くの人と共感することは可能かもしれませんが、全ての人間・全てのシチュエーションに共感できる人はいません。


 つまり、「どうしても共感できない」ということは容易に起こり得ることなのです。問題は「共感しようと思ってもできなかった人が、共感が正解だと思って無理に共感しようとすること」です。共感は「感情体験」なので、無理に共感しようとした瞬間、共感ではなくなってしまいます。「共感が大切」という単純なアドバイスが、大量の「共感でないもの」を生み出している可能性があります。


 「とにかく子どもの言っていることを否定せず、全てを肯定的に受け止め、感情を共有しているかのように振る舞う」ということをやってしまっている人は多いと思います。しかし、わが子を思うあまり、無理して「共感したふり」をしてしまうと、観察力の鋭い子どもは、「ウソ臭さ」を感じて不信感を抱くかもしれません。

共感は、しようと思って確実にできるほど簡単なものでなく、形ばかり演じればむしろ危険です。

03 「意志の尊重」の誤解

 不登校を認めている場合、親は「学校に行きたくないという意志」を尊重しています。子のひきこもり状態を認めている場合も、親は「今は就労したくない」「新たな対人関係をつくりたくない」「外出したくない」といった「意志」を尊重していると言えます。

不登校やひきこもりに対して肯定的な人々は、しばしば「意志の尊重」の重要性を説いています。私も重要性に関しては同感です。しかし、この「意志の尊重」もまた、しばしば独り歩きしています。とくに明確な「意志」を持ちにくい子の頭に浮かぶのは、もっぱら刹那的な欲求や、面倒なことを避けたい欲求に関することです。


 最たる例は、親が子どもの求めを何でも受け入れ、屈服している状態です。このようなケースの場合、従来は「親の甘やかしすぎ」とされてきましたが、もしかすると「意志の尊重を極端に実現しようとした結果」なのかもしれません。


 善良で真面目な親が、わが子にひたすら寄り添おうとして「子どもが言ったこと」に従うことが「意志」だ誤解した結果、子どもの刹那的欲求にばかり対処してしまう状態になることは悲劇です。子どもはそのような親を信用しないからです。

似たものに「自己決定の尊重」があります。これは「あなた決めたんだから、あなたの責任だ」という「自己責任化」の恐れがあります。「意志の尊重」と「自己決定の尊重」の組み合わせが誤解のあるまま突き進むと、子どもからこう見えてしまうかもしれません。

「親はしっかり意志を尊重し、当人に任せているのできちんと対応しています。うまくいかないのは全て本人のせいです。」

誤解が親子間の断絶につながらなければいいのですが。

04 「傾聴」の誤解

 「子どもの話に耳を傾けましょう」は、心理サポートの基本ですが、そのメッセージを単純に訴えすぎると弊害も生まれます。典型的なのは、「子どもの話を否定せずに最後まで聴くことが傾聴である」という理解をし、親が子どもの話を聞くときに「我慢しながら・苦痛を感じながら聴く」という状態に陥らせてしまうことです。

 親は臨床心理の専門家ではないので、「否定しないで聴け」というメッセージに素直に従ってしまいますと、「子どもの話を肯定的に聴けない私はダメな親なのだ」「子どもが言うことに何でも従わなければならないのだ」などと誤解を生じてもおかしくありません。

とくに、子どもの発言に過激・悪質な内容が含まれていた場合、返答に窮してしまいます。たとえば、子どもが「死にたい」と言った場合、親は返答を迷うでしょう。そんなとき「『私メッセージ』が良い」と教える人もいます。「あなたはそう感じているのね。でも私は死んで欲しくはないのよ」という返事のしかたです。しかし、観察眼が鋭い子どもは、親が内心、何を思っているかを見逃しません。「わかったようなことを言っているけど、ありがちなテクニックで対応している」と受け取るかもしれません。

 親に関心を持って話を聴いてもらいたい子どもは、うわべだけ聞いているふりをしてもらいたいわけではありません。「否定しないことが正解だから」という理由で受け止められても嬉しくありません。「とにかく傾聴すること」のような単純化した受け止め方をせず、傾聴にまつわるリスクについても考えなくてはなりません。

 話している側は、ある程度吐き出してスッキリしてくると、今度は双方向のやりとりもしてみたくなってくるものです。そうなると、質問をしたりします。「お母さんはどう思う?」などと。そのとき、答えに詰まってしまうと「この人はただただ聞くだけで、何も考えてはいなかったんだ」と思うかもしれません。

 適当に合わせてしまうと「本心とは違うことを言っている。信用できない」となるかもしれません。反対意見を述べれば「だったら、言わなきゃ良かった」となるかもしれません。はぐらかしても「そろそろ返事を聞いてもいい?」となるかもしれません。表面的かつ単純なテクニックで傾聴を用いることは危険です。

 傾聴自体はとても大事なことで、心理療法家も日々研鑽を積んでいることです。安易な傾聴はかえって子どもからの信用を失う可能性があります。

05 「やりたいことを応援」の誤解

やりたいことを応援するのは、良い場合も多々あります。しかし、やみくもに子どもがやりたがることを応援するのはリスクがあります。注意しなくてはならないのは、「意志は常にひとつにまとまっているわけではない」ということです。「口から出てくるときにはひとつしか出てこないので、あたかもそれがまとまったものだと受け取られがち」なのです。

たとえば、「アルバイトをしてみたい」と子どもが親に言ったとします。この言葉を親がそのまま受け取って喜び、「ようやく動き出す気になってくれたか」と、アルバイト探しを積極的に応援したとします。「ハローワークに相談してみてはどうか?」「好条件な求人情報を見つけた」「経営者の知人に頼んでみようか?」など、たくさんの働きかけをするのは「わが子のやりたいことを応援するため」です。

ところが、「アルバイトをしてみたい」と言った子は、親が積極的に情報提供をしてくることに対し、反応が薄く、時に迷惑そうな顔をしたりするかもしれません。親はこう思うでしょう。「自分でアルバイトがしたいと言ったから応援したのに」と。

 親は苛立ってくるかもしれません。そして「あなたがアルバイトをしたいと言うから、こっちは応援しているのに、一体いつになったらバイトをするの?」と怒りをぶつけてしまうかもしれません。このようなことは、口から出た言葉だけを聞いているせいで起きる悲劇です。

親は「アルバイトをしたい」という言葉にのみ反応しました。しかし、言葉以外の部分では「アルバイトをしてみたいとは思うが、いざやろうと思うと腰が引けてしまう」とか「自分はもう一生働けないのかもしれないと思って凹んでいる」といったニュアンスが含まれているのかもしれないのです。

社会的行動を避けがちな若者は、シンプルに「やりたい」「やりたくない」が分かれていないことも多く、「やりたいけど、不安がある」「避けたいけど、避け続けるのも嫌だ」「やりたくないが、やらないともっと大変なことになる」といった、矛盾した心のベクトルを抱えていることが多いものす。その場合、「口から出てきた言葉」だけを受け取り、その言葉を応援するということは、「相反する意志のうち、片方しか応援していない」ということになります。

06 「ありのまま」の誤解

「子どものありのままを受け止める」という言葉は、子育て本にはおなじみです。しかし、その月・その週・その日・その時間、子どもは変化しています。「ありのまま」は常に一定していません。「ありのまま」も「受け止める」も曖昧です。「現状をそのままに理解する」という表現の方がわかりやすいと思います。

たとえば「行きたい」と「行きたくない」が共存していたら、「あの子は、行きたい気持ちと行きたくない気持ちが共存していて、葛藤している」と理解します。その場合、行くことも行かないことも応援せず、「葛藤」にこそ着目すべきでしょう。

 家の中で過ごしている様子が「ありのままか」と問えば、本人の気持ちや考えはそれだけではないかもしれません。「あなたはずっと家の中にいてもいいのよ」の声掛けに激しく落ち込む可能性もあります。「自分はいつまでもずっとこうしていたいわけではない」と思っている人もいます。「当事者の一面だけで決めつけないこと」が大切です。

07 明るい不登校になれなくても当然

不登校やひきこもりの体験談に、以下のようなものがよくあります。 

「学校が辛くて不登校になった」

         ⇩

「不登校しても辛かった」

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「〇〇の考えに触れて不登校を前向きに考えるようになった」

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「今は明るくやっています」

という、「発想の転換」→「明るい不登校」というパターンです。

日本の不登校は「学校に通うつもりだったのに不登校になってしまった」という生徒が圧倒的に多いのが特徴です。つまり、「『明るい登校』がしたかったのに不登校になってしまった」という生徒のほうが圧倒的に多いわけです。

 そうなりますと、「不登校はむしろチャンス」といった明るい発想への転換を促す前に、「明るい登校ができず、暗い不登校になってしまったこと」に対して私たちは立ち止まって考えるべきではないでしょうか。

 小中学校への登校は子どもから見れば「事実上の半強制状態」であり、自由に選べる状態ではありません。日本では、楽しく通学する生活を送りたかった多くの子どもたちが不登校になっているわけです。そうなりますと、当事者の多くが実感することは「落ちこぼれてしまった」ということです。「自分なりに頑張ったけど、なじめなかった」という状態です。


 そこへ「暗く考えていないで、明るく考えていきましょう」という働きかけをしても、気持ちがついていかない子どもは多いことでしょう。そこには周囲の大人たちに何かが欠けている気がします。その何かとは「無念さ」「残念さ」「悔しさ」「理不尽に対する怒り」「悲しみ」「自責感」などへの想像力ではないでしょうか。


 「明るく前向きに考えましょう」と当事者にメッセージを送る前に、無念さ・悔しさ・悲しみを理解するところから始めるべきではないでしょうか。明るい不登校になれなくても、当然なのです。

08 選択肢のない子どもたち

「学校」
 「教育
支援センター(適応指導教室)」
 「フリースクール」
 「学びの多様化学校(不登校特例校)」
 「インターナショナルスクール」
 など

 これらは「通所に抵抗がある子どもたち」にとって、選択肢ではありません。ぽっかり空いた穴に落ちてしまった子どもたちには、選択肢が無いのです。

 そうした「選択肢のない子どもたち」が利用を勧められやすいのは、医療やカウンセリングです。しかし、医療やカウンセリングで、リアルな人間関係や進路といった教育ニーズを満たすのには無理があります。

 よく不登校に対する批判に「学校は勉強だけじゃない。人間関係を学ぶところでもある」とか「学校で我慢をすることを学ぶのも大切だ」といった意見があります。しかし、「学校で人間関係に対して、強烈な負のイメージを植え付られた子ども」「学校で我慢ばかりし続けていた子ども」は通所型施設を拒みやすいものです。

 通所型に行けなくなってしまった子どもたちが「選択肢のない子どもたち」となり、「ひきこもり型不登校」になるしかない現状があります。

09 達観ではない

「自分には、ひきこもりを肯定したり、将来の心配をしないなどという達観はできない」ともし思われたら、それは誤解です。良くないと思っていることや危険だと思っていることを無理やり良いことや安全だと思いこむ必要はないんです。子育てを修行のように言う人がいますが、子育ては修行を修めた選ばれた人だけのものではありません。

 「良いか悪いか」「危険か安全か」ではなく、「今はそうするしかない状態なのだろう」とか「そうやって自分なりに避難しているのだろう」といった「現状への理解」が必要なだけです。

 「この心配を手放してしまったら、わが子が不幸になってしまうかもしれない」と思って心配を続けているのかもしれません。「わが子を不幸にしたくない」という思いは愛情ですから、持ち続けていいものだと思います。

 ただ、子ども本人の操縦桿は子ども自身が握っていますから、親が子どもを心配するほどうまくいくわけではありませんよね。子ども自身が信用し、納得するのがいちばんです。

 親から見ますと、「なぜこのような不合理な行動をとるのか」と疑問に思うかもしれませんが、子どもの視点から見ると「ベストではないものの、その条件下では総合的にベターな選択」だったりします。


 つまり、「現状より総合的にベターな選択」ができたらいいわけです。しかし、信用できない相手の、納得できない説明では、どんな提案も受け入れるはずがありません。そうなると、親の脳裏には「強要」がよぎり、子は「拒絶」の態勢に入るでしょう。


 「諦めるとは明らかに見るということだ」などと諦めを説く人もいますが、何かを諦めるということでもなく、人としてのステージを上げるといった修行でもなく、ましてや達観でもなく、「本人からしたら、今はそれが合理的なのだろうな」と想像してみるというだけのことです。

10 親へのサポートこそ重要

不登校の子どものうち、かなりの数の子どもたちは家庭を中心に過ごしています。医療機関や相談機関を利用したりしている子どもたちもいますが、ひきこもり状態の子どもが多数います。このような現状で、どんなに学校内外に居場所や専門施設を作ったとしても、その効果は限定的です。

文科省は今後、不登校特例校を300開校すると言っています。確かに「地域にそんな学校があれば転校したい」という児童生徒のニーズはあると思います。しかし、それは、

「起床後に外出の支度を整え」
「外出し」
「単独で公共交通機関を利用して移動し」
「長時間他人と過ごし」
「他人と同じ建物の中で食事をとり」
「課題や行事をやり」
「夕方になったら帰宅し」
「宿題や受験勉強をやる」

ような生活ができる児童生徒のニーズです。通所型施設を拒否している子どものニーズではありません。

そうなると、親へのサポートが、非常に重要になってきます。どんなに優れた専門家でも、当事者とコミュニケーションできなければ、関わる機会がありません。では、親へのサポートとは、どうあるべきでしょうか?

まず「親は子どもの対応に悩み、疲れているのだから、その心の疲れを癒して欲しい」というニーズが確実にあることでしょう。ただし、このニーズにばかり応えていますと、サポートが子どもに行き届かなくなることが考えられます。

親の心は複層的であり、その基底にはやはり子どもへの深い愛情があることがあります。しかし、不登校やひきこもりであるわが子に対し、日々の態度や言動を否定的に受け止めてしまう親は少なくありません。「怠惰」「弱虫」「慢心」など否定的解釈にはまり込むと、そうとしか見えなくなります。しかし、そのような否定的解釈が子どもに伝わりますと、子どもは、その奥にある親の愛情の層を見ることができません。親子で互いを否定する思いを抱きながら、同じ屋根の下で長時間過ごし続けることになれば、当然のように「できるだけ家の中で距離をとり、時間帯をずらす生活」になってしまうでしょう。

もっとも重要なサポートは、「親が子を否定的に解釈し、その考えが子に伝わり、親子が互いに否定し合う関係になることを防ぐサポート」ではないかと思います。

また、否定的に捉えることとは逆で、やたらとわが子や不登校、ひきこもり状態であることを肯定しすぎ、褒めまくってしまう親もいます。親は子どもを元気づけたい、勇気づけたい、子どもをいかに大切に思っているかを伝えたい、という愛情深い行動であっても、「不登校・ひきこもりのわが子をどうにか変えたい!」という「手段としての肯定」は、現状の子どもにとっては否定です。親の素直な気持ちがマイナスに作用してしまう悲劇が起きないようにしなくてはなりません。

不登校やひきこもりの子をもつ親は大変です。世間一般の考えを持ち込めば子どもとの間に深い溝ができて、会話もままならなくなることがあります。もし、「元気になって欲しい、せめてこれくらいはできないと将来損をするだろう」と思うことすら、わが子に拒否されてしまうとしたら、「いったい何をどうすればいいんだろう」ということになってしまうでしょう。

そんなときに思い出して欲しいのは「夜泣き」です。赤ちゃんの夜泣は、あやせば泣き止むというものではありません。母乳やミルクも飲まない、さました白湯も飲まない、涼しくしても温めても関係ない、声をかけても、動かしても、おもちゃを振っても泣き止まない・・・。


 そんなときでも親はそばにい続けます。この「何かできているわけではないが、親しかしないようなこと」。このことにすごく価値があると思うのです。「こうすれば、ほらね」というようなことは、誰だってやってみるでしょう。しかし、そういうものがない中で見捨てることなく、ずっと気にかけている。その価値はとても大きいものです。そのような親を支えるということが、長い目でみますと、最大の効果を発揮するとわたしたちは思います。

11 通信制高校の進学で重視すべきこと

不登校が増えている理由として考えられるものはいくつかありますが、注目すべきは「単位取得の条件がユルい私立や株式会社立の通信制高校」です。全日制に比べて多くの生徒を受け入れることができるため、ほとんどの学校で選抜の必要がありません。「ほぼ全入」です。

 中学の出席日数や内申点がゼロでも学力試験なしで入学できる通信制高校はたくさんあります(当会の提携先である通信制高校もそうです)。「小中学校に行かなくても高校に進学できる」「少ない出席日数で卒業できる」という事実は、多くの不登校児童生徒の保護者にとって安心材料となっていることでしょう。

 しかし、不登校の背景に「過剰な対人・対社会不安」などがありますと、「スクーリングに参加できない」「高校卒業後に就学就労できず立ち尽くしてしまう」といったことが起きることが珍しくありません。また、大学や専門学校を卒業したり、就労したとしても、挫折を感じて辞めてしまい、再びひきこもってしまう可能性もあります。

 したがって、ひきこもり型不登校で重視すべきは、単位取得や卒業資格よりも、不登校の背景となった以下のようなことではないでしょうか。

「過剰な対人・対社会不安があって踏み出せない」
「過緊張で心身が持たず続かない」
「完璧主義や白黒思考でうまくいかないことがあると激しく落ち込む」
「楽しいことや興味があること以外がすべて苦痛で続かない」
「辛いことを何度も思い出してしまい、意欲が続かない」
「自己否定が強く、すぐ傷ついて諦めてしまう」など

 むしろ、上記のようなことを緩和するために通信制高校を使う、という発想が大切です。

12 「進路」の考え方 ~ほんとうに怖いのは再不適応~

一般的に「進路」と聞くと、「進学」や「就労」が浮かぶと思います。

 しかし、「ひきこもり型不登校」に関しては、進路でいきなり進学・就労を意識するのはお勧めしません。「進路の取り組みが、新たな不適応を起こし、挫折経験となる可能性があるから」です。


 そもそも、不登校をし、フリースクールなどの通所型施設に通わずにいるのは「社交的場面の回避行動をとっているから」です。そこをいきなり「進学・就労」で対応しようとすれば、自ずと「過敏さや回避傾向を温存する前提の進路選択」とならざるを得ません。

 具体的に言いますと、高校なら「他人と接する機会が少ない集中スクーリング方式の通信制高校在宅ネットコース」を選びやすく、アルバイトでは「他人とコミュニケーションする機会が少ない年賀状の仕分けやポスティングや倉庫のピッキング等」を選びやすいでしょう。

 大学に進学する場合でも、通学を避けようと通信制大学を選んだものの、通信制大学が通信制高校と違って「まったく不登校の受け皿ではなかったこと」に気が付いて退学する人がいます。

 通学制の大学に入学しても、サークルや部活動には参加せず、もっぱら受け身で講義を受け、ひとりで食事をしながら過ごそうとしやすいでしょう。その結果、大きなギャップに出遭うのが「就活」、そして「就職後」です。

 当事者親子としては、「通信制高校」→「大学・専門学校」→「アルバイト」→「就活」→「就職」の流れの中で、徐々に社会生活に慣れ、社会的経済的に自立することを期待することでしょう。

 しかし、こうした進路計画に共通するのは、「ハードルの低い進学先・就労先を選ぶこと」と「社会生活の慣れがぶっつけ本番であること」です。「過敏さや回避傾向を温存したまま」「一般的なハードルとしては低いものの本人的には大きなチャレンジをし」「リアルな進学・就労先で適応をすべく努力する」という点が共通しています。つまり、適応チャレンジが「基本的にアウトソーシング(外注)」の形になっています。

 このような進路計画は、当然、何割かが成功します。成功するので、チャレンジする人は後を絶ちません。そして、何割かが失敗します。「再不適応」です。

 ひきこもり型不登校→通信制高校卒業→大学等に進学→アルバイト経験→就活→卒業→正社員として就職。けれども、温存し続けた「一般の人にはどうということもないストレスが過大に感じてしまう傾向」や「苦手を極端に回避しようとする傾向」が、再び不適応を起こし転職先を決めずに退職する、という形で現れることがあるのです。

 いまどきは、通信制高校卒業や大学入学はそんなに難しいことではありません。私たちのサポートでは簡単な部類です。大事なのは「温存している過敏さや、極端な回避行動を緩和できるかどうか」です。

 そう考えると、不登校やひきこもり行動というものは、非常に重要な情報を発しているわけです。その情報から何をくみ取り、どう対応するかで、再不適応を予防しやすくなるでしょう。

13 「自己肯定感」の誤解

精神的に落ち込んだり、自信喪失している子どもに対し「自己肯定感を高めたい」と考える大人が多くなりました。おそらく「自己否定感を解消するには自己肯定感を高めればいいのだ」という考えが根底にあるのでしょう。「セルフエスティームを高める」ということと、目の前の子どもの自己否定感とは、分けて考えたほうが良いのではないでしょうか。

 なぜなら、自己否定対策として自己肯定を持ち出すその考えは「自己否定を抱えた子どもへの否定」です。「自己否定を抱えた現状のあなたをやめて、自己肯定を持った人間になって欲しい」という大人の願望を優先した考えです。

 自己否定感と自己肯定感は、一線上でつながった対極ではありません。自己否定感の反対は自己肯定感ではなく、「自己否定感がない」です。「喉が渇いている」の反対は「喉が渇いていない」です。

 本来、自己否定感とは生きる上で大事なものです。苦手なことをしない気分によって失敗を防いでいるのです。たとえば、泳ぎが苦手な人がいきなり川に飛び込まないようにしてくれています。

 自己否定感の正体は自己防衛です。「うまくいかないという予想」に基づいています。「危険。やらないほうがマシ」なので「自分なんてダメだ」と行動を抑制する気分になるわけです。誰しも苦手なことを避けるときは、「事態を悪化させないため」です。利益のためではなく、不利益を生じないための自己抑制です。この誰しも持っている不利益の回避行動が、著しく広汎に出て気分を落ち込ませているのが「自己否定感」です。

 その子にとっては、自己抑制に「不利益を生じないメリット」があるわけです。親からは「それでは利益が生まれない。自己抑制が極端であるほうが不利益を生じる」と見えるでしょう。しかし、その子は親の考えより、自身の自己抑制のほうが安全だと感じているはずです。「どうせ自分なんて」「きっとうまくいかないよ」「親はわかっていないんだ」と。

 そんな子どもに自己肯定感を高めようと働きかけると、一層気分を落ち込ませるかもしれません。「ああ、親はこんな自分を見ているのが嫌なんだろうな」と。

14 「短期的欲求」と「中長期的欲求」

 ひきこもり型不登校の子どもの多くは、「短期的欲求」に従った生活を送っています。

 まず「危険回避欲求」です。就学・就労や外出・他者との交流などの社会的行動に対して極端な不安を抱き、回避したいと願う欲求です。この欲求が強いため、ひきこもっているわけです。親や他人が、その考えの極端さを指摘しても、聞く耳を持たないでしょう。短期的欲求は原始的な欲求ですから、なかなか理屈では理解できません。

では、当事者が短期的欲求だけで生きているかといえば、そうではありません。人間には短期的欲求と中長期的欲求とがあり、両者が矛盾していることも珍しくありません。一方では外に出ていくことが不安で出ていきたくない短期的欲求があり、一方では仲間・友達や恋人が欲しい、社会的経済的に自立したい中長期的欲求があることの方が多いのです。

人間の脳は一度に複数の欲求を保持することができ、矛盾した欲求さえ同時に保持できます。つまり、人があることを口にしたとしても、そのことと矛盾する気持ちも同時に保持している可能性があります。

 「僕は一生働きたくない」と言っていた場合、それは本心だとします。でも、その気持ちが百パーセントかといえば、そうでないかもしれません。

「お金や社会的地位より精神の健康だ」

「働いてもうまくいく気がしないし、どうせ続かない」

「人の何倍もストレスを抱え、今より悪い状態になるかもしれない」

といった「働きたくない」に関連する気持ちがある一方、


「仕事がうまくいってお金が稼げるならお金は欲しい」

「人間関係に恵まれた環境なら続くかもしれない」

「知識や技能を身に着けられるならば」

といった「もしもうまくいくとしたら、やってみたい思いもある」かもしれません。人の心理は言葉ほど単純ではないわけです。

 代表的な「短期的欲求」は、「食欲」「排泄欲」「性欲」などの「生存欲求」や、「恐怖」「不安」「悲しみ」などの原始的な「安全欲求」に根差すものです。特に、トラウマ化した恐怖・不安・悲しみなどは、なかなか理性ではコントロールしにくいものです。

 いっぽう「中長期的欲求」は、「社会的欲求」です。その充足には、他者とのコミュニケーション、事前の積み重ね、知識や技能や報酬を得るための時間などが必要です。ひきこもり傾向の強い人は、しばしば社会的欲求の充足より、社会的場面の失敗を回避することのほうを優先します。

短期的欲求と中長期的欲求は、短期間では前者のほうが優位ですが、長期間抑圧された後者は、当事者に悪影響を与えます。勉強も仕事もせず、趣味娯楽に浸る生活をしているように見えても、すっきり気分が晴れているわけではない人の方がずっと多いのです。それはずっと満たさないままの中長期的欲求がそうさせています。

中長期的欲求が満たされない状態にあるときには、中長期的欲求に沿いつつ、「不安・恐怖・警戒心」といった短期的欲求に阻まれない程度の小規模な活動が、ひとつの光明になる、私たちはそう考えています。

15 「言えること」を保証する

 親は子に対して絶大なる権力を持っています。親が養わなければ自分で収入を得て生きていくしかありません。親子が会話するとき、雑談の範囲なら良いのですが、いつ「(親の考える)大事な話」になるかわかりません。

 親は、子どもに関する「大事な話」だと思っているので、気軽に子どもに話をし始めます。しかし、その瞬間「上から下への意志伝達」になったり、「上から下へのヒヤリング」になったりします。

 いっぽう、子から親に意見を述べること、さまざまな親に対して言いたいこと、聞いてもらいたいこと、伝えたいことなどは、親の態度によって大きくその機会の有無が分かれます。

 封建的な家父長制の名残のある家庭では、子から父親に対しては、なかなか意見を述べにくくなっています。話をすること自体、勇気が必要です。父親の価値観と異なる意見や希望を述べようものなら、あっという間に傷つけられてしまうかもしれません。

 「子から親への話しやすさ」はどうでしょうか。「結果はともかく、親がしっかり聴き、頭ごなしに否定しない」という「機会の保証」はあるでしょうか。「子どもの話を何でも肯定しなきゃいけない。否定したいことも受け入れなきゃいけない」と考える必要はありません。「家族の一員として、他のメンバーに聴いてもらえると確信しながら言えることは大事だ」と考えて欲しいわけです。

 
 「傾聴」という「聴く」に重きを置いた考え方より、「言えることを保証する」と改めてはどうかと思います。聴くというのは、どうしても「言うことをきく」というイメージがあるので、「発言の自由を大切にする」という捉え方にするわけです。

 
 子どもが「うちの親はちっとも話を聴いてくれない」と不満を持つときは、親が聞きたくない話を切り上げたり、拒否したり、すぐに否定するからです。そういうことを繰り返していると、今度は子どもが同じような態度に出てくるかもしれません。つまり、「親の話をきかなくなる」のです。

 家族の誰かに「いうことをきかせよう」という考えをもって接するのではなく、とにかく「考えたことや、感じたことをお互いに話す機会を認め合おう」というのは、かえって親の権威を守ることになると思います。親が権力を振り回すほうが「子どもに話をきいてもらえない」という結果になりやすいのではないでしょうか。

 畏怖ではなく、信用を伴うほうが、ずっと良いと思います。

16 発達障害のせいにしていいのか?

不登校全体のうち発達障害(神経発達症)の特性がある児童生徒の割合は、一般平均よりかなり高いと言われています。そのため、不登校の原因を発達障害に求める人もいるようです。


 しかし、不登校を発達障害のせいにすることはお勧めできません。「発達障害を治す」「通級に入れれば良い」「発達障害の子の苦手を克服させる」といった発想になっていくからです。

 不登校支援の現場では、たしかに発達障害の診断を受けた子ども・若者に出会う割合は、一般平均よりかなり高いです。ただ、共通して感じることは「学校で著しく尊厳が傷つけられた経験を持っている」ということです。


 具体的には、うまくできないことを「からかわれる」「イジられ役にさせられる」「いじめられる」といった扱いを受けたり、「わがまま」「思いやりがない」「ルールを守れない」といった問題児扱いをされたり、距離をとられて避けられたりすることが、非常に多いわけです。とくに障害について理解を得にくい発達障害の場合、攻撃や否定に容赦がないということが多く、そのような環境では劣等コンプレックスが著しく大きくなってしまいます。


 たとえば、「毎日学校に行っても、見下されたり、否定されたり、迷惑がられたりしてばかり」だとすれば、その子にとって学校は教育機関ではなく、「精神的ダメージを負いに行くところ」です。まるで排除されるかのような経験をして不登校になっても、「あの子は発達障害のせいで適応に問題があって不登校になった」のような理解をされる、といったことが起きていたとしたら、どうでしょう。


 とくに、通所型施設を頑なに拒むひきこもり型不登校の場合、発達障害があったあとしても、よくよく話を聴けば、不登校は別の障害のせいです。それを勝手に名付けるならば「後天的信用障害」です。他者や自分自身を信じることができず、社会的場面をことごとく避けようとする状態にまでしてしまったのは、ほんとうに発達障害のせいなのでしょうか?

17 ひきこもりとAVPD

「パーソナリティ障害」のひとつに「AVPD(回避性パーソナリティ障害)」があります。拒絶・批判を受けたり、恥をかく・屈辱を受けることから自己を守るため、広汎わたって社会的状況や交流を回避する特徴があります。日本ではあまりなじみがないかもしれませんが、アメリカの診断基準(DSM-5-TR)によりますと、その推定有病率は2.4%です。


 内閣府の「こども・若者の意識t生活に関する調査」によりますと、ひきこもり状態にある人は、推計で15歳~39歳で2.05%、40~64歳で2.02%でした。ひきこもり状態の人が全員AVPDなどということはありません。しかし、日本では、あまりにもAVPDの診断が少ないのではないか、と思います。


 日本ではおそらく「社交不安障害(社交不安症)」のほうがなじみがあるでしょう。社交不安障害は、会議やスピーチなど他人から注目されるような場面で強い不安や恐怖心・緊張を感じる病気とされています。しかし、ひきこもり型不登校の場合、そもそも社会的活動を「注目が集まる場面」だけでなく、ほぼ丸ごと避けているため、AVPDのほうが近いのではないか、という指摘もあります。


 日本では、まだ「パーソナリティ障害」自体、よく知られておらず、診断もされにくい傾向があるようです。以前「人格障害」と訳されていたこの障害については、未解明な部分も多く、誤解も生じやすいため、医療現場でも診断を避ける傾向にあるのではないかと言われていますが、はっきりした事情はわかりません。


 わたしたちは、AVPDの診断についてどうこう言いたいわけではありません。ただ、「社会的状況の回避行動」として「ひきこもり型不登校」を見ると、その捉え方が大きく変わってくると考えます。「ひきこもっているのではなく、広汎に回避しているのだ」という考え方です。

 
 「ひきこもりを治そう」とすると「いかに引き出すか」という発想につながりやすくなります。じっさい結果として「引き出し屋」という言葉が生まれました。しかし、「広汎に回避している」とすれば、「自室」や「ネット」は「安全圏」として選択されているわけです。すると「回避しない部分」に注目せざるを得なくなります。

 「外に出す」という発想から「安全圏を広げる」という発想に転換するために、「回避」という概念は有効だと考えます。

18 ひきこもりは2種類

勝手な分け方ですが、ひきこもりは2種類に分けられると思います。

 「居間に出てくるひきこもり」と「自室にたてこもるひきこもり」です。

 
 前者のひきこもりの境界線は「家のドア」であり、後者は「自室のドア」です。前者が「他人はNO。家族はOK」なのに対し、後者は「他人も家族もNO」です。前者では警戒すべき人間から家族が除外されていますが、後者は除外されていません。


 社会的ひきこもりは、物理的に体が家の外に出るかどうかではなく、心理的な「不安・恐怖を喚起する警戒すべき対象と安心・信用できる対象との区分け」において、警戒すべき対象が極端に広いために社会的活動に支障が出てしまうという現象です。これは、逆に考えると「安心・信用できる対象が極端に狭い」とも言えます。


 「安心・信用できる対象を少し広げる」という考え方に立つと、家の外に出るか出ないかに注目するより前に、「その人は家族を警戒対象に入れているのか、例外としているのか」に注目するべき、となります。


 私たちは「居間に出てくるひきこもりは、たいしたことない」と思います。あとは、家族以外の安心・信用できる人が少し増えるだけで、他者へのスタンスもドミノ式に大きく変わっていく可能性があるからです。「ホームエデュケーション」は、家庭の力で、子どもの安心・信用を広げていきます。

19 不登校対応は新しい時代に

私(代表・矢嶋)は不登校サポートに関して、ひとつの時代が終わったと考えています。終わったのは、「明るい部分を強調する時代」です。

「不登校の子どもたちがこんなすごいことをしました!」

「新しい学びはこんなに素晴らしい!」

「こんな面白くてユニークな取り組みをしています!」

 

という明るい部分の強調は、会員獲得のためには有効だと思いますが、「すごい・素晴らしい・面白くてユニーク」といった面を強調すること自体、「自分には価値がない」「自分は面白くもユニークでもない」と感じている多くの子どもたちの感覚とズレています。

 明るい部分を強調することに力が入りすぎると、「いかにもいいひと」が「魅力的な取り組み」や「単純な方法」を提示し、美しい成長ストーリーで信用を掴むやり方をするようになるでしょう。


 不登校に限らず、教育に関する書籍や講演は、なんだか「いいひと」や「美しいストーリー」が氾濫しています。「子どもに寄り添う」「子どもに向き合う」「子どもの人権を守る」と、「いいこと」ばかりです。私は、不登校対応含め、教育が「いいひとをやっていればどうにかなる」と思いすぎではないかと思います。「いいひとがいいことをして、困っている人たちを救う」のような考え方は驕った考えです。私を含め、不登校サポート業界は、別にいいひとの集まりではありません。

「子どもは全員学校に行くべきで、学校に行かないことは悪である」という時代には、不登校を認めることや、その地位向上のために、背伸びをしたアピールは、かなり効果があったと思います。しかし、逆効果も生んだはずです。

単純なメッセージで「ありのままを受け容れましょう」「子どもの話に耳を傾けましょう」「意志を尊重しましょう」などと大衆心理学のようなメソッドが強調されて伝わりますと、まるで悟りを開くための修行のようになってしまいます。すると、うまくできなかったときに、「自分は親としてダメなんだ」と思わせてしまいます。本来、子育ての悩みは簡単に解決できるものではありませんが、簡単に理解できるものは美しく、妄信しやすいのです。

私は人前でやたら「いいひと」を演じるような人のことは警戒しています。社会的に良いと言われることをしているような団体や個人を「ソーシャル・グッド」と呼ぶことがありますが、私はそのような活動をしている人間が、自らを「いいひと」に見せたがるのは、本質ではなく表面的なイメージで信用を得ようとしているように見えてしまいます。

20 「信用関係」

 「信頼関係」という言葉はよく耳にしますが、「信用関係」という言葉は使われていません。しかし、私は「信用関係」という言葉を推したいと思います。信頼はどんなに努力したとしても得られるとは限りませんが、信用は得ることができる可能性があるからです。

 信頼は大きく「気持ち」が絡んできます。いっぽう、信用は過去の実績によって左右されるものです。「信頼できないが、信用する」ということがあり得るのです。

 ひきこもり型不登校の子から親への信用が低下していて、親以外に信用できる人間がいなかい場合、親がすべきことは「信用の積み重ね」です。ひきこもり型不登校は、「学校へ行かないこと」や「就学就労しないこと」に見えますが、その多くの実態は「自他への不信が強い不安となって回避行動をとらせていること」です。

 他者との信用関係がない場合、親子の信用関係は極大に重要です。その関係は、その後の社会的行動の土台となるからです。もし、その子が孤独であらゆる社会的行動を拒んでおり、家族も含めた他者への信用がないという状態であれば、いまどきの子どもはネット社会やメディアの中にしか信用できる相手を見出すことはできないでしょう。

21 その子は親を信用しているか?

 相談で、不登校のきっかけや時期について詳しく説明される親のかたが多いのですが、私たちがもっとも知りたい情報は、「その子は、親の言葉に耳を傾けるか?」です。親の言うとおりにしなくてもかまいません。文字通り、親の言葉に耳を傾けるかどうかです。問題なのは「親が口を開いただけで拒否しようとするような態度」です。

 次に知りたいのは、「親以外にその子が信用している人はいるか?」です。親を信用していなくても、祖父母、親戚、知り合いのおじさん・おばさん、学校時代の友人、幼馴染、街中やネットで知り合った人、など誰でもかまいません。「この世の中にたった一人でも信用している他人はいるか?」が知りたいのです。

 「ひきこもり型不登校」を自他への信用の著しい低下と考えますと、学校に通うかどうかというちっぽけな問題でなく、人間社会で生きていくうえでの一大事です。私たちが直接お子さんと関われるようになるかどうかは、親や誰かの信用をお借りできるかどうかにかかっています。

 私たちが直接関わっている・関われる子どもたちは、親を信用しています。同時に親が私たちを信用してくださっています。すると私たちは、その子にとって「信用している親が信用している人たち」ということになります。これが「信用をお借りする」の意味です。

 親を信用していない子は、私たちに合おうとしません。「信用できない親の信用している人間」であるため、拒否すべき人間リストに入ってしまいます。その場合、「親の信用度を上げる」ということが第一選択となります。

 

22 過ちを素直に認めること

 どんなに努力しても、親子の「信頼」関係を取り戻せないことはあり得ます。しかし、「信用」関係であれば再構築の可能性があります。信用関係の回復には、まず「信用を大きく喪失した事案について、具体的にその過ちを認めること」からです。

多くの子どもは、もともと親を信用していたはずです。現在の親を信用していない場合は、何らかの「親の言うとおりにしたら、悪いことが起きた」ということがあったはずです。それが尾を引いていたとすれば、その撤回と修正は、意味があります。ただし、虐待や性加害等が過去にあった場合については、信用関係の修復といえども困難です。ですから、これ以降の話は、虐待や性加害等が無い前提で述べたいと思います。

親がかつての自分の言動をふりかえり、当時の過ちの撤回や修正をしたとしましょう。そのことを恨みに思っている子どもは、激しく怒るかもしれません。あるいは「いまさら?」とか「そんなことで許されると思うなよ」とか、中には土下座を要求してくる子もいるかもしれません。そのような激しい反発や冷酷な態度が出てきた場合、そのことに親はショックを受けるでしょう。しかし、そのような本音が出てくるということは、重要な話し合いになっている、ということです。

 子どもが激しい親への批判を口にしたら、親への攻撃の姿ではなく、親への信用を喪失して大きく傷ついた子の姿のほうに着目していただきたいと思います。親の想像を超えて、大きく裏切られた気持ちを引きずっていたということを理解する機会です。

 子どもの信用を失ったきっかけは、良かれと思ってのことだったでしょう。それでも、子どもを深く傷つけるきっかけであったなら、堂々と過ちを認めるべきです。わが子が潔く謝れる人間になって欲しいと願うのであれば、なおさら。

 「親が謝ったのだから、子は許すべきだ」という考えは捨てましょう。過ちを修正し謝ることと、許されるかどうかは別の話です。「許しの強要」のような謝罪は良くないので、土下座はよろしくないと思います。「土下座までしたんだから」という思いは、親子関係を信用とは別の方向に行かせてしまうでしょう。

 かつての信用を喪失した過ちを撤回・修正、あるいは謝罪したならば、そこで子どもにへりくだったり、従ったりする態度をとることは、良くないことだと思います。その先に信用はないでしょう。日々は「子から親への復讐の時間」になってしまうかもしれません。復讐の相手と信用関係を結ぼうとは思わないでしょう。謝罪し萎縮するのではなく、「何がどう良くなかったのか、わかっていなかったかを伝えること」が重要です。

 子どもに対して、へりくだったり、顔色をうかがったりすることは、非常によくありません。そのような親を信用することは難しいことです。親への信用がないということは、心から親を尊敬し、信用していた過去があったからこそです。そこに思いを致す親であることが重要だと考えるのです。

23 信用関係の形成

「親の言うとおりにしたら、悪いことが起きた」

 このせいで親への信用が低下したとしますと、信用を回復するには、その逆をしていくことになります。すなわち、

 「良い結果につながらないことは言わない」

 「親の言うとおりにしたた、良いことが起きた」

 ということを積み上げていくことです。

 だいたい、親は「大人の知識・経験における優位性」で子どもに話をしやすいでしょう。それです。それが、いとも簡単にその子を傷つけ、傷つけたことに気づかず、信用を失う典型的な場面です。

 
 親は「良かれ」で「一般的な成功パターン」を提案しやすいものです。しかし、それが通用しなかった場合、「親のいうとおりにするとダメージを受ける」「親の良かれは警戒すべき」と学習してしまうのです。この、いわゆる「余計なことを言わない」というのは、親はなかなかできないことが多いのです。「良かれ」の恐ろしさです。


 そして、信用の積み上げは「小さなことからはじめること」が大切です。なぜなら、すでに信用を失っていた場合、いかにも重要なことを語り始めれば、それだけで拒否反応が出てくることが容易に想像されるからです。信用を失っている場合、大人の優位性が垣間見れただけで、拒否反応が起きるでしょう。したがって、「不登校もひきこもりも関係のない、日常生活上の良きこと」から始めた方が良いのです。


 たとえば、「テーブルの上の料理は、電子レンジで2分加熱してから食べたほうがおいしく食べられます」というメモを残しておくことです。「なんだ、そんなことか」と思う人はいると思いますが、信用関係がまったくない親子では、そのメモですら簡単に無視されます。親の期待を裏切ることを全力で努力している子どもはいます。それほどに親子間の信用関係がないのです。

 
 これは、けっして子どもにおもねるのではありません。「ご機嫌取り」ではないのです。「最近の親の言うことは、聴いておいたほうがいい」という関係を構築するための気配りです。したがって同時に、「子どもに気を遣う態度をやめる」必要があります。「ご機嫌取り」「顔色をうかがう」「へりくだる」は全部ダメです。


 小さいことから信用を積み上げるのは、やってみますと、なかなか難しいものです。ライフハックを並べればいいというものでもないし、余計なことは言いたくても言わないようにすべきだし、気を遣ってもいけないし。


 私たちはそれを「親のたたずまい」と言っています。

24 親のたたずまい


 信用関係が希薄になった親子も、かつては強い絆があったはずです。子どもとの関係に悩んだら、「その子がかつて信用していた親のたたずまい」を思い出してください。

 
 いろいろなアドバイスを試してきましたが、親のたたずまいを説明するのに、これがいちばん理解されやすいようです。


 親からしますと、「ねえ、高校どうするの?」「いつまで家にいるつもり?」「将来、やっていけるの?」「病院とかカウンセリングに行ったら?」「なんでそんなひどい態度になるわけ?」といった日々の心配ごとはストレスです。だから言いたくなります。しかし、そうした考えは、ほんとうに親自身の考えなのでしょうか?


 子どもが幼かったころは、もうちょっと堂々としていたんじゃないでしょうか。怪我や病気でオロオロしたことがあったとしても、その子が見上げた先にあった、頼れる親の姿があったと思うのです。

 
 「このままじゃ大変なことになる」という親の強迫的な焦りは、かえってひきこもり状態を固着化させる方向に作用すると考えます。必要なのはその反対。「まあ、なんとかやれるんじゃないか」です。

 
 社会と一口に言っても、私たちは、せいぜい「身近な7人くらいで決まる」と思っています。身近な7人と信用しあえる相互関係があれば、社会不安は、それがない人と比べて小さいはずです。


 「何とかしないと!」と、思いついたことをさせようとしたことが、かえって新たな子どもの挫折を生み出し、こじらせてしまうのをたくさん見ました。何とかすべきは、親のたたずまいです。もっとも身近な存在を信用できることが、社会に出ていくときに大切になってきます。


 社会と家庭をまったく違う世界と捉えるのではなく、「家庭はすでに社会である」と捉えてみるとよいのではないでしょうか。親のたたずまいは、「あなたはすでに社会に受け入れられた存在である」ということを感覚的に子どもに伝えるのです。

25 過剰不安と「事前練習」


 近年、小中学生の不登校が増加している要因に「通信制高校」があります。「学力試験なし」「内申点が低い」「欠席日数が多い」といった条件でも合格でき、もっとも少ない高校で、年間のスクーリングは4~5日程度で済むからです。「小中学校に行かなくても通信制高校で高卒になれる」この事実が不登校増加に拍車をかけています。

 
 通信制高校の多くが「週5日コース」「週3日コース」「週1日コーズ」などの通学コースを併設しています。通信制高校が「通信制サポート校」を同時に運営しているわけです。通信制自体の学費は低めですが、通学コースを選択すると、コースによっては全日制私立校よりも学費が高くなることがあります。


 ひきこもり型不登校だった生徒が、通信制高校に入学する場合、最初に悩むのがおそらく「通学コースにするか、在宅コースにするか」だと思います。通学コースの場合、レポート作成が楽になります。仲間や友人を見つけることができるかもしれません。「もし、うまくいかなくても、そのときは在宅コースに切り替えればいい」と考えて通学コースを選ぶ人もいるでしょう。


 最初から在宅コースを選ぶ場合、気になるポイントのNo1は「スクーリングに参加できるかどうか」ではないでしょうか。久しぶりに他人、しかも同学年の生徒が集まるスクーリングに、果たして参加できるかどうか、です。イーズの高校コースでは、宿泊をホテルの個室にしていますが、大部屋に宿泊することに大きな不安を抱く生徒は珍しくありません。「スクーリングは日帰り可のところしか無理」という人もたくさんいます。


 スクーリングの次は「レポート」です。コンスタントに提出することが難しく、締め切りが迫ってから大量のレポートに取り組む生徒も少なくありません。

 
 さて。「通信制高校があるさ」で実際に通信制高校に進学したとします。しかし、「できるだけ課題がユルく、スクーリングが少なく、簡単に高卒資格がとれそうな高校はどこか」といった選び方で進路を考えるということは「過剰な社交不安を温存させる」ということになりはしないでしょうか。


 高卒資格のため、スクーリングをひたすら耐え、締め切りギリギリに大量のレポートをやっつけた生徒は、高卒後、どうなるでしょうか。ひとつめの進路は「大学・専門学校への進学」です。学力試験のない総合型入試で、難易度の高くない大学等に進学するという進路です。その場合、大学・専門学校の入学と同時に「フルタイム拘束」がスタートします。大勢の他者がいる場で、週5日、長時間拘束されるのです。すると、何割かは「再不登校」になります。大学や専門学校は、事実上の不登校の受け皿となっている通信制高校とは違います。


 ふたつめの進路は「フリーター」です。「正社員など到底無理だ」「いきなり正社員はキツそうだから、とりあえずアルバイトを経験したい」といった「大学・専門学校・正社員」を除外する消去法でフリーターを選ぶのです。こちらも、何割かは「再不適応」が起きて、無職になります。とくに社会不安を温存させた人は、「できるだけ他人とコミュニケーションしなくて済みそうな、週2日程度の短時間アルバイト」を探す傾向があり、社会不安を抱え続けて実社会で働くことに消耗して辞めてしまうことが珍しくありません。

 
 「ああ、家にひきこもってゲームをしていたあの日に戻りたい」過剰な社交不安を抱えた人の何割かは、進学してもアルバイトをしても、そのような思いを抱えたまま「仕方なく」行動しなくてはなりません。


 共通するのは、親子ともに「とりあえず通信制高校で高卒資格」「大学・専門学校進学してから/アルバイトをしてから順応することを祈る」といった「事前練習なしに社会的活動に突っ込んでいくところ」です。「通信制高校」「大学・専門学校」「アルバイト」が「社会に出るための練習の場」だと考えるからでしょう。


 しかし、過剰な社交不安を抱え、高度に在宅生活に順応した人が、いきなり「朝6時半に起きて」「身支度を整え」「朝食をとり」「7時半に家を出て」「電車やバスで移動し」「何時間も他者と同じ空間で過ごし」「勉強や仕事をし」「家の外で食事をとり」「他者とコミュニケーションしたり、人前で発言したりし」「時には帰宅後も課題をやり」「夕食後に入浴し」「翌日に備えて早めに就寝し」「長時間のゲームや動画視聴を我慢」しなくてはならないのです。

 
 過剰な社交不安を前提に通信制高校を選び、とりあえず高卒をとって進学等を経験させ、その中で社交不安が軽減されて一般就労が実現する、というケースは確実にあります。しかし、同じくらいかそれ以上、「再不適応」が起きるのを見てきました。そうならないために「事前練習」が重要です。


 過剰な社交不安を温存したまま、「一般よりはユルそうな進学先やアルバイト先」を選ぶことで対策したつもりになって、いきなり実社会生活をスタートさせるのは、大胆な賭けです。確実に成功し、大きく変わる人もいますが、再不適応を大きな挫折経験としてしまう人もいます。


 イーズは、「いきなりより、事前練習」をお勧めしています。

26 「将来何になりたい?」のリスク


 若者にとって、将来はとても見えにくい不確定なものです。そんな彼らに大人たちは「将来は何になりたいの?」と気軽に問いかけたりします。


 「問い」というのは、しばしば「答え」を狭める効果があります。「何が食べたいの?」と尋ねれば、それは食事をすることが前提になっています。


 「将来何になりたいか」を問われ続けた若者は、将来を職業名で考えることを刷り込まれます。その結果、「声優」「小説家」「ゲームクリエイター」「アイドル」「配信者」など、ふだんから趣味・娯楽を通じて馴染みのある職業が浮かびやすくなります。


 なぜなら、まだ働いたことのない若者は、職業そのものをよく知りません。知ったところで、良いイメージを持てるかどうかは別問題です。若者が、「何になりたいか」と問われ、そのとき持っている情報の中で、興味をそそる職業、関心を持ち続けられる職業、憧れの職業を口にしたとしても、おかしなことではありません。


 しかし、問題はその職業が、「就くと自己実現が果たされる」かのような、「約束の地」と化してしまうことです。多くの若者が憧れ、目指しやすい職業は、当然のように競争率が高く、成功するのはピラミッドの頂点である一握りの人たちだけです。

 実際に成功した人たちは、夢を持つ大切さ、諦めないこと、チャレンジ精神、その世界をこよなく愛することなどを素直に語ります。たしかに、それらが彼ら彼女らの成功にとって必要だったはずです。しかし、同じことをしたとて、成功する可能性はほんの僅かです。


 私たちは、これまで多くの若者の進路をサポートをしてきました。競争率の高い職業分野を目指す人を応援してきたこともあります。親のみなさんも、「この子は、こうと決めたらそれしかないから」「夢を追いかけるのは良いことだから」「なれなかったとしても、目指す中で仲間に出会い、学びがあるだろうから」と、その進路を応援する人は少なからずいました。


 私たちがそのときに声掛けしてきたのは、「もし望んだとおりになれなかったとしても納得できるかが、実質的にその世界を目指す者の資格になっているのではないか」ということです。一生懸命目指したけど手が届かなかった。そのとき、目指した努力を否定したり、その職業を悪く言ったりするくらいなら、目指さない方がいいと考えるのです。


 ひきこもり型不登校当事者の場合、就労というのは、非常に大きなハードル、大きな壁と言っても良いくらいのものであることが多いわけです。そのとき、職業選択は事実上、消去法になります。「できるだけ苦手なことを避ける」「意欲が持てなそうな分野を避ける」。それから「やりたい・やってみたい職業名」を思いうかべます。


 将来は「何になりたい?」と聞くより、「仕事に就くことについてどう思う?」「どうなりたい?」と聞くほうが答えやすいと思います。すると、素直に「できれば働きたくない」「人前で接客とか無理そう」「勉強していないし正社員は無理そう」などのネガティブなことや、「ブラック企業はいやだ」「怖い人がいないところがいい」「自信がもてるようなところなら」などと職業名に関係ない就労に関する希望を聞くことができやすいです。


 昨今、魅力的な専門学校や各種学校の専門コースがたくさん用意されています。私たちは、本気でその職業を目指す若者たちには大変良いことだと思います。しかし、どこかで就労を恐れ、「他は全部やりたくないけど、これならば何とか」と賭けるような気持で目指す場合、入学後に「こんなはずじゃなかった!」となることも珍しいことではありません。


 若者は、常に夢や具体的進路先を胸に抱いているわけではありません。むしろ、就労自体を恐れたり、不安がっている場合、そちらのほうに注目したほうが、結果的に就労しやすいと考えます。仕事は消費者として良いイメージを抱く職業名で選ぶだけでなく、「自分でもできそうだ」「ちゃんと必要とされる」「ストレスがあっても乗り越えていける」「成長を実感できる」といった側面から選ぶこともできるのです。

27 後天的に信用が障害されていること

 これまで、不登校の原因というものは、様々な原因が指摘されてきました。親の子育てのせい、文科省のせい、学校教育のせい、発達障害(神経発達症)のせい、子どもの性格のせい、などなど。

 
 しかし、サポートの立場で考えますと、「自他への信用の低下」がもっとも注目すべきポイントです。そして、その低下は、後天的に起きていることがほとんどです。

 不登校のきっかけと、不登校や不適応状態からの脱却のきっかけは別物です。そもそも、なぜひきこもり型不登校の子どもが、なかなか社会的行動を起こせないかと言えば、非常に端的な言い方をすれば、

「誰のいうこともきかないから」

です。他者や自分自身への信用がない。

 身近な、場合によってはその人しかいないサポート者である親の言うことをきかないので、ずっと社会的行動を回避し続けており、そのことを親が悩んでいる、という構図が共通してみられます。


 そうなった理由は、「親のいうとおりにして良い結果が出ると思えないから」です。その悲観的見通しのために、身動きがとれず、「昨日のような今日」を送り続けるわけです。

 身体・知的障害の人たちのほうが比較的就労しやすいのは、傾向としては親のいうことをきいているわけです。親しかいないのに親のいうことを信用できない人は、行動を起こせません。

 子どものことが心配で、子どもに働きかけても、ことごとく拒否されていますと、親もだんだん我慢がきかなくなっていき、怒りをぶつけたり、「いつまでもこんな生活していていいと思っているの?」「知らないからね!」などと激しい言葉をぶつけたくなったりするかもしれません。そして、さらに親への不信を強めてしまうのです。

 ひきこもり型不登校の子どもは、親や他者からの「前向きな取り組みへの誘い」を警戒していることが多いでしょう。「そのとおりにしたら、本当に今より良くなるのか」と想像するでしょう。


 その結果として「この話に乗るわけにいかない」と判断するのは、過去の経験がそうさせています。「これまで信用して失敗した。だから、やすやすと信用しない。生産的なことをさせ、現状を変えようとする働きかけには、原則応じるわけにいかない」といった考えを持っていると思います。このやりにくさは、親と子の間にある社会的障害であり、まるで「信用障害」のように見えるのです。

 この「信用が大事である」という考え方を、どうか「きれいごと」と受け取らないで欲しいと思います。たとえば「金融機関における信用」のようなものだと考えてください。信用がなければ、借りられる・貸せるお金はないはずです。信用がなければ、子どもに届く言葉はありません。

28 進学・就労支援が逆効果になることがある


 ひきこもり型不登校の子どもの将来を案じるのは親として当然です。なんとか自立をサポートしたい、そう考えて「ハードルの低い通信制高校等への進学」や「勤務日や勤務時間が短く、コミュニケーション場面の少ない就労」のようなところに行かせようとするご家庭はとても多いと感じます。


 実際、「学校復帰」「進学」「就職」をもって「成功」と考える支援も数多く存在しています。私たちも昔はそう考えていた時期がありました。しかし、「再不登校・不適応」というものがあるのです。内閣府の調査によれば(KHJ・NPO法人全国ひきこもり家族会連合会HPを参照)、15~39歳で62.5%、40~69歳では90.3%が就労を経験していました。つまり、「いったん就労しても再びひきこもること」は珍しいことではないわけです。


 むしろ、考えるべきは「その進学・その就労がひきこもりの原因」かもしれない、ということです。これからは、全員がもれなく就労することが適切であるという考え方から、脱却する必要があるでしょう。中には、福祉制度を利用したほうがいい人もいます。福祉制度を利用することで、かえって自立できた、ということがあります。


 福祉制度を利用せずに経済的自立を目指す場合でも、「まず就労を想定する」「そのために就労に向けた訓練や体験をする」という発想を、そろそろ改めてはどうかと思います。「その前に、その人は自分自身や他者を信用できているのか」というところを考えたほうが、かえってその人の進学・就労に対する心理的ハードルを下げ、再不登校・再不適応を減少させるのではないかと考えます。


 自他への不信を温存させたまま外形的な条件のハードルを下げることで心理的ハードルも下げて訓練・体験を重ねて就労を実現させるところから、自他への不信を緩和して心理的ハードルを下げることを優先することに移行するという提案です。


 「直接就労を狙うより、自他への信用が上がった方が結果的にいい」のではないでしょうか。

29 不登校はひきこもりになりやすいか


 不登校は狭義では「小中学生」、つまり6歳~15歳です。文科省の統計に高校の不登校も含まれていますが、例年注目を集めるのは小中学生の不登校総数です。欠席日数は「30日以上」とされています。


 いっぽう、ひきこもりは狭義では15歳~64歳です。厚労省の定義では、概ね6か月以上自宅に留まって社会参加がないとされています。


 不登校は文科省が定義し、ひきこもりは厚労省が定義しており、それらの定義によれば、いちばん大きな差は「年齢層」になります。不登校は6歳~15歳、ひきこもりは15歳~64歳です。


 保護者の多くが「不登校をしていると、将来ひきこもりになるのではないか」という心配をします。


 2014年に文科省が行った不登校経験者の追跡調査(不登校生徒に関する追跡調査研究会『不登校に関する実態調査~平成18年度不登校生徒に関する追跡調査報告書~』2014年)では、中学で不登校だった生徒の、5年度(20歳)の就学就労状況を調べたところ、非就学・非就業は18.1%でした。「不登校からひきこもりへのスライド(遷延)率は2割程度」かもしれません。


 内閣府『こども・若者の意識と生活に関する調査』(2022年)によりますと、15歳~39歳の広義のひきこもりの人で、現在の外出状況になったきっかけを小中学時代の不登校としている人は合計23%でした。高校・短大・専門学校・大学を含めると28%になります。


 厚労省『10代・20代を中心とした「ひきこもり」をめぐる地域精神保健活動のガイドライン』の「社会的ひきこもり」に関する相談・援助状況実態調査報告では、小中学校いずれかでの不登校経験は全事例に対して33.5%だったとしています。小・中・高校・短大・大学いずれかですと61.4%にもなります。


 これらの差は、「不登校といっても、長期化せずに学校復帰する子もいれば、長期化して通所型施設に通わない『ひきこもり型不登校』の子もいるという「不登校の多様性」や、調査対象の年齢に原因があるものと考えられます。


 不登校約34万6千人のうち、90日以上欠席した長期不登校は約19万人でした。欠席日数90日以上は、年間授業日数が200日+αの小中学校では、「およそ半年」に相当します。つまり、ひきこもりの定義に近い日数です。


 不登校全体では中学卒業にひきこもり経験者になる確率が2割であっても、「ひきこもり型不登校」の場合は、その割合よりも高くなる傾向があると考えられます。


 また、小中学校で不登校を経験したのち、高校・大学・専門学校等に進学したり、非正規・正規就労をしたのちにひきこもりになるというケースがあります。


 したがって、「不登校からそのままひきこもりへ」というスライド率は全体で2割程度であっても、ひきこもり型不登校の場合、かなり年月を経たあとの再不適応まで考慮すると、ひきこもり状態になる可能性は低くないものと考えておいたほうが良いさそうです。

30 高認(高校卒業程度認定試験)受験のコツ その1


 高認は全8科目(理科の選び方によっては全9科目)合格すると、高校卒業と同等の学力があると認められ、大学・短大・専門学校の受験資格が得られます。また、高卒以上の規定のある資格試験を受験できます。企業によっては高卒と同じ給与規定を適用しています。

 高認は「ふるい落とす試験」ではなく「合格させたい試験」です以下は令和になってからの「全科目合格率」です。少しずつですが、全科目合格率が上昇傾向にあるのがわかります。特に令和6年度では、受験者の約半数が全科目合格です。

令 和

1回目合格率

2回目合格率

年度合格率

元年度

43.7

46.1

45.0

2年度

46.1

47.5

46.1

3年度

44.0

47.8

45,7

4年度

45.0

46.4

46,4

5年度

47.6

47.2

47.2

6年度

51.1

49.7

49.7

                  ※小数点第2位四捨五入

 上記は8科目もしくは9科目の全科目合格率ですが、「1科目以上合格率」だと、
9割以上なのです。

令 和

1回目合格率

2回目合格率

年度合格率

元年度

91.6

89.9

90.8

2年度

91.6

97.7

94.7

3年度

91.4

90.1

90.7

4年度

91.9

93.5

92.7

5年度

91.4

89.2

90.3

6年度

93,3

88.4

90.9


 
 つまり、「高認は受ければ9割は1科目以上合格できる」のです。高認の合格最低点は公表されていませんが、100点満点で40点から50点程度と言われています。一般的な「試験」のイメージはいったん捨てて考えてみてもいいかもしれません。「高校はおろか、小中学校の勉強すら覚束ない」という人でも、合格できる可能性が高いのです。


 さて。イーズで高認試験をサポートする場合、初回の受験では「勉強しなくていい」とお伝えすることが多いです。たとえば国語や社会(地理・歴史・公共)の科目別平均点や合格率は高いので、「勉強しなくても合格する」という「ラッキー合格」があります。これまでサポートしてきた人の中に、何十人もいました。


 それよりも。勉強よりもずっと大事なことがあります。それは「出願手続きをすること」です。そもそも、出願しなくては受験できません。高認受験では「出願を侮るなかれ」です。

 高認は年に2回あります。年2回だと、なんとなく「半年に1回ある」とイメージしがちですが、そうではありません。たとえば今年、令和7年度の高認試験は、

1回目  8月7日・8日
2回目 11月8日・9日

 となっています。「3か月で2回やる」のです。

 油断できないのは、「出願期間」です。8月の1回目を受験しようと考えたとき、その出願はいつだと思いますか?今年の場合、4月7日~5月14日なのです。この文は7月に書いておりますが、すでに8月の受験には間に合いません。5月の連休明けすぐに動かないと8月の受験ができないのです。

 
 同様に、11月の2回目を受験しようと思ったら、7月22日から9月12日までに出願しなくてはなりません。たとえば、1回目の受験結果は9月2日発送予定です。その結果を見てから2回目を出願する人は、出願まで1週間ほどしか猶予がないのです。


 高認は「受ければ、何かしら9割合格する」のに、「受けたかったけど出願できなかった」という人が、おそらく数千~数万人いると思われます。高認を始めて受験する人にとって、最大の山場は受験当日ではなく、「出願」なのです。


 もしひきこもり気味のわが子が「高認を受験したい」と希望したら、親は以下のことをリードしましょう。

①文科省の高認のHPをお気に入りに入れ、スケジュールを確認する。
②受験案内を請求・入手する。
③住民票または戸籍抄本(本籍地記載のあるもの)をコンビニ等で入手する。
④受験料の収入印紙を郵便局等で購入する。
⑤4㎝×3㎝の受験票用写真を2枚用意する。証明写真機を推奨。
(裏面に指名・受験するとっ道府県名を記入。2枚同一。背景無地。無帽。正面上半身で顔がはっきり確認できること。入試じゃないので髪はボサボサでもいい)
⑥願書を作成し、期限までに郵送する。

 なお、受験科目数については、初回ならば「思い切って全科目」をお勧めします。高認は今のところ自由記述ではなく、マークシートです。つまり、「全く回答できないとうことがない」のです。

 どうしても「最初は自信のある科目だけ受けよう」と考える人は多いのですが、前述のとおり「勉強していないのに合格してしまった」ということがありえるので、出願時には全科目でエントリーすることをお勧めします。

<その2へ>







31 高認(高校卒業程度認定試験)受験のコツ その2


 出願ができたら、高認をはじめて受験する人には、勉強よりも「受験会場の下見」をお勧めしています。これは「当日ドタキャン」を防ぐためです。

 高認は、出願しても受験しない人が一定数います。以下は「棄権率」です。

令 和

棄権率

元年度

11.7

2年度

11.5

3年度

12.4

4年度

12.7

5年度

12.4

6年度

11.6


 だいたい、12%前後の人が、出願しているのに受験していません。その理由はいくつかあると思いますが、その中に「当日、不安が強くなって会場に行かれなくなったり、激しく緊張して受験できなくなったりした人」がかなり含まれていると考えます。


 下見は、外出機会の少ないひきこもり傾向のある人に、とくにお勧めです。

・まず、受験の時間帯に合わせて朝起きる練習をする。表に起床時間を記録する。「朝起きられなかった」という理由で受験できない人も少なくありません。

・1回目の下見は親に付き添ってもらっていいし、時間帯もいつでもいいので、会場前まで行ってみる。

・2回目の下見は一人で行ってみる。大学が会場の場合は土日をお勧めする。

・3回目の下見は当日と同じ時間帯で行ってみる。大学等が会場の場合は構内に入れたら入ってみる。


 初めての場所か、何度も行ったことがある場所かでは、当日の緊張や不安の度合が異なってきます。当日激しく緊張すれば、集中力も低下しますし、途中で帰りたくなってしまうかもしれません。

 すでに出願している場合、受験すれば何かしら9割以上合格するのですが、「当日ドタキャン」が約12%です。起床・外出・移動・社会活動に不安を伴いやすい人の場合、ドタキャン率は跳ね上がります。

 「なんなら勉強しなくてもいいので、出願したなら、下見を何度かしておきましょう」というアドバイスでした。

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32 高認(高校卒業程度認定試験)受験のコツ その3


 今回は「合わせ技」のお話です。


 高認の資格を得るには、8または9科目の全てに合格しなくてはなりません。国語や社会は比較的合格しやすいのですが、鬼門は「数学」と「英語」です。数学は小学校6年・中学校3年・高校1年の合計10年の積み重ねが必要で、英語は4年です。


 私たちのサポート経験では、一回の受験で全科目合格する人も多いのですが、数学だけが不合格だったということもよくありました。


 しかし、高認の数学は、他の科目に比べて合格しにくい反面、毎回の出題傾向が似通っています。たとえば1回目の受験で数学だけ不合格だった場合、過去問を重点的に取り組んで次回の合格を目指すと良いでしょう。


 もし、それでも数学が合格できなかった場合(他の科目も同じです)は、「合格できない科目だけ通信制高校で単位を取ること」をお勧めします。通信制高校の中には「1単位いくら」で授業料を設定している学校があります。そこで「単位修得証明書」を発行してもらい、すでに高認で合格した科目の「科目合格証明書」といっしょに「合格の申請」をします。合格証明書が送られてくれば、大学等の受験資格となります。


 ただし、注意しなくてはならないのは、「科目名」と「単位数」です。たとえば高認の数学が免除されるには「数学Ⅰ」で、例外(数学科・理数科などでは2単位のケースがある)を除いて「3単位」が必要です。たとえば「数学A」の場合、20年以上前に高校で単位をとった人以外は免除になりません。必ず、高認の「単位修得証明書 ・ 単位修得見込証明書」内にある表を確認しましょう。


 この逆のパターンで、「高校卒業に必要な科目を、高認の科目合格で免除してもらう」というやり方もあります。たとえば、ある通信制高校は、一定の単位数までは高認の合格科目を高認で振り替えることができる制度を持っていたとします。高認で合格した科目合格で通信制高校の科目を免除してもらえば、レポートやメディア視聴記録等の提出や、テスト・スクーリング等が免除される可能性があります。


 たとえば、通信制高校に入学したその年に高認も受験したとします。もし全科目合格してしまえば、高校を1年で中退し、2年待って大学等へ進学するという手があります。

 
 なお、高校を卒業するには最低74単位必要なので、高認で7科目合格し、その分を振り替えてもらったとしても、単位数は20数単位程度にしかなりません。7単位も合格しているのであれば、残り1科目分の単位をとって高認のほうで資格を取った方がいいでしょう。

 
 最後に、こんな人たちがいました。その人たちは、中学時代不登校で、高校に進学しないまま卒業しました。進学したいと思ったときには遅かったのです。そんなとき、高認を知り、受けてみました。すると1回目の受験で全科目合格したのです。16歳で高認全科目合格を果たしたのですが、日本の制度ですと、18歳の高3年齢の3月を過ぎるまで大学等には進学できません。そのため、そのような人たちは18歳まで「学校の勉強以外のこと」をやったり、ぎゃくに「受験勉強に専念したり」しました。


 今は就学支援金の制度がありますが、学費の安い通信制高校でも入学金・設備費・スクーリング費用などがかかります。いっぽう、高認だと1回で全科目受かれば、受験料は8,500円で済みます。

 
 「高校に入りそびれてしまった・中退してしまった」「だけど高卒資格は欲しい。大学・専門学校に進学したい」という不登校経験者は、高認受験を考えてはどうでしょう。イーズでは、受験前の手続きや各種練習、受験勉強の仕方などのサポートを随時行っており、サポートした人のほとんどが合格しています。

33 「とりあえず高卒」の危うさ


 いまどきは、ほとんど中学校に出席していなくても通信制高校に入学できます。在宅コースなら学費も安いし、年間数日のスクーリングに出席するだけで良いので、多くのひきこもり型不登校の生徒が進学しています。通信制高校に在籍していれば(高校の)不登校になりません。不登校問題としては、形の上で解決です。


 通信制高校入学後、「いかに単位をとるか」に注力する親子は多いと感じています。私たちの高校コースは、課題や単位のことばかり頑張りそうな場合、他の高校を選択することをお勧めしています。受けてもたぶん不合格です。

 
 たとえば「最低限を」「ギリギリで」「義務感で」「仕方なく」「嫌々」取り組む人がいたとします。これを別の視点で考えて欲しいのです。その子に対して他の人が「最低限を・ギリギリで・義務感で・仕方なく・嫌々」対応してもかまわないでしょうか?

 
 「お客さん」や「福祉的な対応」であれば話は違ってきますが、一般的な社会人としては、容赦ない対応が待っているかもしれないと考えるのです。「あなたがそうしたようにしているだけ」という結果が待っているかもしれないわけです。


 実際、「過剰な人見知り」や「強い回避傾向」を温存したまま、「中卒は嫌だから」「とりあえず所属があったほうがいい」といった消極的動機で3~5年を過ごすと、卒業後に温存したものが表面に出てくることが珍しくないのです。


 よくある出来事としては2つ。ひとつは「進学をあきらめて、とりあえずアルバイト志望という形で在宅中心の生活に戻る」。ひとつは「進学後に辛くなって休学・退学し、在宅中心の生活に戻る」です。


 いまどきは、高校進学をサポートしたからといって「不登校問題を解決に導いた」などとは言えません。


 イーズの高校コースを含め、通信制高校の大半は全日制や定時制に比べて格段に入学・卒業しやすくなっています。もし、「過剰な人見知り」や「極端な回避傾向」がありながら通信制高校に進学する場合は、「卒業資格取得」を主とせず、「せっかく単位がとりやすく時間にゆとりが持てることを利用して、過剰な人見知りや極端な回避傾向の緩和に時間を使う」ということを検討してもらいたいと考えています。


 過剰な人見知りや極端な回避傾向は、生来のもので緩和できないということもあり得ます。しかしながら、私たちの経験ではその多くは後天的な影響によるものであり、経験によって緩和されることも多いのです。


 不登校経験者が当面の劣等コンプレックス回避のために「とりあえず高卒」とばかりに通信制高校を選択し、ひたすら課題をやって単位をとることに注力しようとしているとき、私たちは「高卒後まで見据えたとき、ほんとうにそれでいいんですか?」といったん立ち止まって考えることをお勧めします。

34 アルバイトの成功は正社員の事前練習になるか


 これまで不登校経験者のアルバイトをたくさんサポートしてきました。保護者の多くは「うちの子は将来働けるようになるのだろうか」と心配していますから、アルバイトが定着すると、大変喜ばれます。


 アルバイトに慣れた若者たちにヒヤリングしてわかったことは、「無職にはならないだろう」と考えるようになりやすい、ということです。「お金が必要なときはアルバイトすればいい」と考えるようになった若者たちが、かなり多かったのです。アルバイトの成功体験は「生涯無職を回避する」という効果は高そうです。


 では、アルバイトの成功体験は、正社員へのステップアップにも効果的でしょうか。これまで私たちは「大学・専門学校・各種学校進学」や「就活」や「正社員」のサポートも数多くしてきましたが、そこでわかったことは、「アルバイトの成功体験は、就活を見送ったり、正社員を避けたり、正社員を辞める理由になりやすい」ということです。


 たとえば、ひきこもり型不登校を経験した中学を卒業した若者が、通信制高校在学中に週3日、1回5時間、時給1,150「円のアルバイトに慣れ、成功体験を得たとします。すると、以下のことが起きます。


①お金を稼ぐことができ、劣等コンプレックスが軽くなる
 全日制高校の多くは特別な事情がない限りアルバイトを禁止していますが、通信制高校のほとんどが禁止をしていません。そもそも通信制高校は勤労者のためでもあったので。上記の例だと月7万円前後稼ぐことができます。仮に手取で6万円得たとしましょう。もし、これが全額小遣いになったとしたら、同世代に比べてかなり高収入です。趣味や服装や髪形にお金をかけることができます。小遣い6万円は、親世代の小遣いの平均を超え、部長クラスに匹敵しています。


②社会的活動に対して自信が持てる
 「学校でさえ無理だったのに、ふつうに働けている」という自覚は、学校に通っていた人よりも重く価値あるものとして受け取られやすいものです。必要とされる喜び、成長した実感など、アルバイトの成功は自信につながります。無関係なようでいて、アルバイトの成功が、それまで諦めていた大学等への進学希望につながることもありました。


③「居場所」になる。
 アルバイトは、正社員の大人と違って、不就学不就労の人にとっては重要な「肩書」であり「所属先」です。そして、職場で人間関係ができたとき、そこは居場所にもなります。そこで出会った人と親しくなって、遊びに出かけたりすれば、そこは学校よりもずっと大事な居場所です。


④「正社員になりたくない理由」になりやすい
 ひきこもり型不登校経験者がフルタイムのアルバイトをする人は、多くありません。フルタイムでアルバイトするくらいなら、他の雇用形態を選ぶことの方が多いでしょう。アルバイトには「パートタイムでよい」という大きなメリットがあります。拘束されない自由時間が多いというメリットは、人見知り傾向の強い人や、趣味娯楽に時間とお金を使いたい人には大きな魅力です。
 また、正社員になった場合、転勤して実家を離れなくてはならないということが起きやすいわけです。長年のひきこもり生活を送ってきた人にとって、一人暮らしとフルタイム就職を同時にするのは大きなストレスです。


⑤情が移ってアルバイトを辞められない
 「自分なんて社会に通用するはずがない」などと考えていたような人が、もしお客さんに「あなたがいるから来たのよ」などと言われてしまったら、どうでしょう。実際、そのようなことがあると、小さな声掛けが、非常に大きく心を動かします。もし店長から「君が辞めたらこの店がは回らない」などと言われたらどうでしょう。そんなに頼りにされているのか、と思うのではないでしょうか。
 人見知りも極端だけれど、人情の感じ方も極端な場合、アルバイトを辞めなくなるということは十分に起きることです。そうなった場合、生涯収入が平均に比べて1億5千万円下がる、ということも起きるかもしれないのです。


⑥正社員になったあと「あの日々に戻りたい」と考えやすい
 正社員は多くがフルタイムです。一般の人よりもストレスを貯めやすい人ならば、一日・一週間・一か月・一年がすごく長く感じます。そんな中で、何かしんどいことが起きたとき、「辞めたいなあ」という考えが浮かぶのは、一般平均よりずっと多いのではないでしょうか。
 誰しも長く続けていれば「辞めたいなあ」「アルバイトしていたころは良かった」と思うことはあっておかしくないわけですが、実際に辞めるときに「辞めたら無職か」という考えに比べて「しばらくフリーターをしながら考える」という結論は、自分自身や親に対する説明として、しっくりきます。実際、アルバイト経験者が正社員を辞めたあとフリーターに戻るケースは珍しくありません。



 「アルバイトの失敗」は、その後の就労イメージ全体に暗い影を落としますが、アルバイトの成功が、かならずしも正社員の成功にはつながるわけではない、と私たちは考えます。

35 学校より仕事に向いているかもしれない


 「学校さえ無理だったんだから、仕事なんて到底できないだろう」

 そう考えてしまう人が少なくないように思います。「就労こそ最後の大ボスだ」と。ところが、案外そうでもないのです。


 たとえば、「受け身でいいのなら、座学の授業は平気。むしろ休み時間や放課後が苦手」という人が、ひきこもり型不登校の人には多いのです。考えてみると、受け身ではあるものの、「勉強のほうは平気」という人が学校に行けないというのは皮肉なものです。


 そのような人は、フリートークが苦手な反面、「立場のある受け答え」はしやすいわけです。その場合、「中学より仕事のほうがやりやすかった」と感じるようになる人は案外多かったと思います。


 「仕事だって休み時間はあるだろう」という指摘があるかもしれませんが、人見知りの人ならば、学校の休み時間のコミュニケーションよりも、適度な距離感が維持できる多世代の職場の雑談のほうがしやすいという心理は理解できると思います。そもそも、休み時間でも何かしら仕事がらみの話をすることは多いものです。


 私たちは、これまで多くの人に「あなたは見張られてなくてもきっちり仕事をしようとする人ですか?」という質問をしてきました。すると、体感で7割の人は即答で「そうですね」と答えました。「うーん、どうだろう」と迷う人もいますしたが、「サボっちゃいますね」という人は、ほとんどいませんでした。


 そのような人たちが「自分は社会に出て仕事をするなんて、できそうもない」と落ち込んだり、諦めたりしているのは、大変残念なことです。


「学校になじめない」≠「仕事ができない」

 です。むしろ、「仕事が向いているから、学校になじめないのではないか」と思うことは珍しくありません。これはべつに、勇気づけようとか、就職させようとか、そういう意図はないのです。基本「真面目」人が多いのです。問題は「真面目すぎること」のほうです。


 どうしても、教育って、どんどん上に重ねていこうとするんですね。「足し算」なのです。でも、「過剰であるならば、引かねばならない」のです。「引き算の教育」というものが、これからの教育には取り入れられていくべきだと考えます。


 「学校はダメだったけど、大きな不安と緊張の時期を過ぎたら、仕事ができていた」ということは、全員に起きることではありませんが、「ふつうに」起きます。なぜなら、「学校がダメだと仕事もダメ」ということがないからです。むしろ、「学校がダメだったんだから仕事もダメだ」という考えが、「就労恐怖」となって、ひきこもり状態の人何割かを苦しめているのではないでしょうか。

36 「できた・できる・できそう」


 私たちの見てきたひきこもり型不登校の人の不適応とは、「過剰適応タイプ」が非常に多いのです。「余裕でできるけど、めんどくさい」とか、「単に家にいるのが楽だし、好きだから」という人は、それなりにいると思いますが、レアな存在だと考えています。


 現在「教育支援センター」と呼ばれている施設は、かつて「適応指導教室」と呼ばれていました。「引き算の教育」で考えますと、「過剰なものは減らす方向で考えるべき」なのです。ところが、「不登校」は「不適応」という理解ですから、「適応を指導しなくてはならない」と考えてしまっていたわけです。すると、どうしても「適応できるように頑張らせよう」という「過剰なのに追加しようとしてしまう」のです。


 未だに教育界は「できないのは、足りないからだ」と考える傾向があります。「足りないのだから、不足を埋めよう」と考えます。行きつくのは「もっと努力しないと」「甘え・怠けだね」です。このせいで、不登校の親子が追い詰められていくわけです。


 しかし、効果があるのは、圧倒的に「リラックス」です。過剰適応タイプは、過剰不安を抱えているわけなので、当たり前にリラックスがとてもよく作用します。では、心理的なリラックスを教育的にサポートするには、どうしたらいいでしょうか?それが「できる・できた・できそう」です。


 不安そのものは、とても大切なものです。失敗を回避するという重要な役割があります。しかし過剰不安は、過剰なので、当然デメリットのほうが大きいわけです。「怖がらなくていいものまで怖がって緊張したり回避してしまうから」です。


 過剰に反応したり回避したりするのは「見通しが立たないから」です。幽霊が柳だったと確認できれば恐怖は去るわけです。すると、大事になってくるのが「慣れたり、成功した経験」です。


 人は、類似の過去にできたこと・できなかったことを原体験として記憶しています。恐れ・回避するということは、「負の原体験」があると考えられ、そこから「できなかった・できない・できないだろう」という発想になって「予期不安(想定不安」につながります。これが過剰になると「やらないほうがマシ」という考えになり、回避行動が多くなって極端に消極化します。


 「その逆をやる」わけです。「小規模ながら類似の成功体験を得る」わけです。それが「正の原体験」となれば、「できた・できる・できるだろう」という考えの基礎になります。


 現在、不登校やその経験者に対し、自信をつけさせようと、多様な支援プログラムがありますが、それらの問題点は「原体験形成としてはハードルが高すぎる」ということです。それは「できて欲しい体験」から発想をスタートさせ、そこから条件を緩和していく「トップダウン方式」だからです。


 必要なのはその逆です。「ボトムアップ方式」です。両足を骨折して入院している人に「さあ、病院の庭を軽くジョギングしましょう」とは言わないでしょう。「まずは上半身を起こして」「車いすに乗れるように」のような「できそう」なところから取り組んでいくべきなのです。


 今の不登校支援は、「100を目標に、70まで下げてあげる」のようなやり方になっていないでしょうか。それを「配慮」と呼んではいないでしょうか。私たちは「100段階あるとすれば、2とか3あたりから」をお勧めしています。そちらのほうが100に到達しやすいからです。


 なぜなら、「100を70に割り引いてもらったにもかかわらず失敗した」という経験は、いっそう深く大きな負の原体験となるからです。

37 「般化(汎化・一般化)」


 ある経験に対する反応が、類似の他の経験においても現れることを「般化(はんか)」と言いますが、この般化、応用される対象の広がり方に差があります。


 たとえば、中学生のときに、同じクラスの髪を金髪にした背の高い男子にいじめられ、不登校になった子がいたとします。その子の拒否反応の広がり方によって、行動が変わってきます。

①「同じ学校の子を拒否するようになる」

②「中学生を拒否するようになる」

③「中高生を拒否するようになる」

④「若者を拒否するようになる」

⑤「金髪を拒否するようになる」

⑥「背の高い人を拒否するようになる」

⑦「男性を拒否するようになる」

⑧「他人を拒否するようになる」

⑨「家族を含め、他人を拒否するようになる」

⑩「自分も含め、人間を拒否するようになる」


 条件反射のようなもので、この拒否反応は理性的なものではありません。たとえば一匹の犬に吠えられた経験から、その犬種が苦手になったり、犬全体が苦手になったり、動物一般が苦手になったりすることがあるように、「リクツではなく、拒絶反応が起きる」のです。動物で理解できない人は、虫など他の例で想像してみてください。「頭でわかっているかどうかは関係ない」のです。


 ひきこもり状態の人の場合、この般化が「若者全般」や「他者全般」に広がってしまっている場合が多いようです。とくに「ひきこもり型不登校」の場合、学校生活で
他の生徒へのイメージの悪化が積み重なっているために、「家にいるほうがマシ」な状態になっているようです。


 そんな般化が顕著に広がっている場合、着目すべきは「般化の例外」です。しばしば「家族」が例外または「他者よりは話しやすい」と認識されることは多いのです。その認識の差は、「居間に出てくるひきこもり」と「自室にたてこもるひきこもり」の差になって現れます。


 「般化」は、極端な回避行動に関係しますが、「回避行動の緩和」にも関係します。「この人は安全な人」という認識が、極端な回避行動を大幅に改善することがあります。


 冒頭の例ですと、「大緊張して出かけた先で、たまたま出会った同世代の子と趣味が合って、リラックスして会話ができた」とします。その経験が、他者全般に広がった対人不安を大幅に縮小することがあります。


 回避行動自体は問題がありません。むしろ、危険から身を守るためには大事なことです。問題は「極端で損をする回避行動」です。その極端さは「般化」からきているとすれば、重要なのが「例外」なのです。

 
 ホームエデュケーションは「家族は例外」という状態でなくては始まりません。家族への信用を土台として、他者に応用されていきますと、「小規模な認識の転換」が、レバレッジ(てこ)効果のように、認識を大きく変えていくわけです。

38 「相談」のしかた その1


 不登校に関して「相談」と言いますと、どうしても「困りごと相談」のイメージになってしまうと思いますが、いかがでしょうか。たしかに困っているときほど相談したくなるものです。


 私(スタッフ:矢嶋)も、長年多くご相談いただきましたし、今も受け続けておりますが、非常に残念なことがあります。それは「不登校=困ったこと」「ひきこもり=困ったこと」というイメージが、困りごと相談によって固着化してしまうことです。


 相談機関自体、相談を「困りごと相談」と認識していることが多いのではないかと想像します。とくに「相談者に寄り添います」といった「寄り添い」を強調している相談機関は、相談者が負のストレスを抱えた「弱った」状態であると認識しているからこそ、そうした表現を使っていると思われます。


 私は、相談をする人が「寄り添ってもらえた」と感じることは大事なことだと思いますが、相談を受ける側が「寄り添います」という看板を掲げるのは、なんだか古本の「高価買取」みたいな形骸化したものに感じて、個人的に好きではありません。


 不登校は、他の困りごとと大きく異なる点があります。不登校やひきこもりは、親ではなく、子ども自身がしていることだという点が異なります。いちばん困っているのは子ども自身、これが違いです。


 「わが子の不登校で悩んで困ってストレスを抱えて孤独を感じた親が、すがるような気持で相談先を頼り、話を聴いてもらい、共感してもらって落ち着いた」とします。不登校やひきこもりで悩む親に共感して寄り添うことは、「親には」効果が絶大でしょう。でも、「その子」にはどうでしょうか。そうした相談は「子どもの不登校が親を悩ませ、弱らせている」という形になってしまっています。あなたがもし不登校やひきこもり状態で、親が自分の相談を相談機関にしていると知ったら、どう感じるでしょうか。


 「不登校やひきこもりで悩んだ親の心が軽くなる相談」は、「子どもがストレスの発生源である」という認識を固着化させてしまう危険性があります。とくに「困った子ですね。けしからん。学校や社会に戻しましょう」といったアドバイスは、表面的な親の気持ちを支持してくれても、奥底の親心までは理解していないのではないでしょうか。


 私がまだ駆け出しだったころ、当然と考えてひたすら親の話を傾聴し続けたことがありました。気持ちが明るく軽くなったと非常に感謝されました。しかし、その方は、やがて定期的に電話をかけてこられ、喜々として子どもの悪口を延々と話すようになってしまったのです。当時の私の未熟さのせいもありますが、「不登校・ひきこもりに関する親の相談」は、ほかの困りごと相談とは根本的に異なるという点は、未だに相談機関に共有されていないと思います。


 誰かの「やらかし」をネタのように細やかに記憶し、カウンセラーなどに不満を吐き出すことは、横柄な上司、支配的な舅姑、理不尽な顧客、無礼なご近所、無理解な学校など「他人」であればいいのです。荒波を立てず、日々を生き抜く知恵です。しかし、「わが子」となりますと、話は別です。「右手が左手の悪口を言う」ようなものです。


 相談で子どもの不登校やひきこもりを根本的に受け容れることができたなら、その相談には非常に価値があったと思います。いっぽう「不登校の子どもが問題の発生源である」という認識を温存させ、親が子どもへの不満を耐えながら貯め続けては吐き出すというサイクルをつくってしまう相談は注意しなくてはなりません。


 親子の情は実に深いものだと感じています。「子どもではなく私のほうを先に助けてほしい」という親は、いることはいるのですが、少数でした。それも、心身ともに疲労が積み重なってのことでした。ほとんどの親は「困ってるのはわが子であって、その子の困りごとにどう関わればいいか悩んでいる」というのが本心でした。そういった、原初的な親心に気づき、回帰できるような相談先を選んで欲しいと願っています。

39 「相談」のしかた その2


 相談といいますと、「困ったときにするもの」と考えがちではないでしょうか。しかし、実際に相談を受ける立場からしますと、困ったときほどできることは少ないのです。「ああ、これがもうちょっと前だったらなあ」と思うことが多々あります。


 たしかに、困ったときは相談していいのですが、「困ったとき限定」でなくていいのです。私たちは「コンサルテーション」と呼んでいますが、「ふだん」や「調子が良いとき」こそ、できることは多いものです。「ふだんがより良くなるために」「調子が悪くならないように」「もっと調子よくなるように」という発想で相談を活用することだってできるのです。
 

 教育に関する相談は、今のところ、まるで医療のように、困ってから相談するものというイメージが定着していますが、相談なんて、困っていなくたっていいんです。「もっと得したい」でいいんです。


 いっぽう、心にすっかり余裕がなくなって、考えを変えたくても変えられず、わが子がひどい、憎い、辛い、といった気持ちでいっぱいになったときには、相談する際のちょっとしたコツがあります。「今回は、愚痴を吐き出したい。アドバイスを受けても実行しようと思える状態ではないので」と先に宣言してしまうことです。


 つまり、相談といっても、「困りごと相談」もあれば「愚痴を吐き出したい相談」もあれば、「コンサルテーション」もある、ということです。ただ、わが子への不満がどんどん積み上がっていくようなことは、お気をつけください。それは、内緒にしているつもりでも、いずれその子にバレてしまうので。

40 「相談」のしかた その3


 イーズの会員ではありませんが、精神科の医療にかかった人でたまに、「話をよく聴いてくれなかった」とおっしゃる人がいます。なんとなく「こころのお医者さん」のイメージから「カウンセラーのように優しく丁寧にじっくり話を聴いてくれる」という思い込みがあったのかもしれません。


 また、「薬を飲んだけど、ちっとも聴かない。やぶ医者なんじゃないか」「薬の副作用がひどくて、西洋医学に対して不信感を抱いた」のようなことも聞くことがあります。


 そうした医療のかかり方をする人たちは、「医者たる者、常に一回目で正確な診断をし、ぴったりな薬を処方し、適切なアドバイスができてしかるべき」といった思い込みがあるように思います。


 子育てや教育相談でも、同じようなことが言えます。どんなに詳しくお話をうかがったとしても、情報源は親か当事者の話だけです。1回目の相談が終わったくらいでは、まだまだ分からないことだらけです。そんな中で「とりあえず、これをやってみましょうか?」という提案をして、その様子を知りたい、といったことをすることがあります。


 しかし、それを「この提案どおりにしたら、必ずうまくいくのだ」と勘違いをする人が少なくありません。


 子育てや教育に関する相談で、「一発で問題解決をしてみせる!」という人がいたとして、私はそんなふうにはしたくない、と考えています。やはり、コミュニケーションを続けるうちに情報が積み上がっていきますし、小規模のお試しによって、反応傾向がわかるし、継続的なチャレンジの場合は、その中で起きる様々な事柄に早めに対応できるからです。

 
 基本、「相談は回数を重ねることで、だんだん確度があがっていくものだ」とお考えいただくといいと思います。「あれは、やってみたけど、こういうことでうまくいきませんでしたね」といったことは、積極的に伝えた方が良いです。

 
 話は戻りますが、ひきこもりの人には、医療不信の方が少なくありません。過去の不愉快な経験が、医療全体への不信へと広がってしまうということは珍しくありません。そんなときは、「あのお医者さんは、ちっとも話を聴いてくれなかったね」「ああの薬は全然合っていなかったね」などとしながら、他の医療機関を受診したり、薬を変えて(薬そのものの変更や量の変更や効き目の変更や追加や減薬など)もらえないかと申し出てみたら良いと思います。


 不登校やひきこもり自体は病気ではありません。しかし、医療に助けられながら自立している人たちも大勢いますので、「コミュニケーションを重ねること」を大切に付き合っていくことをお勧めします。

41 家族はチーム

 家族は不登校やひきこもり状態の子どもにとって、非常に重要な存在です。しかし、よくあるのはこのような図式ではないでしょうか。

「お父さんは働いているので問題なし」

「お母さんは専業主婦で家の中で(あるいは共働きで)働いているので問題なし」

「お兄ちゃんは大学で学んでいるので問題なし」

「あなたは不登校で勉強もせず、働きもしない問題児」

といった「家庭内差別」です。


外でどんなに働いていようと、そこでお金を得ていれば、必要な報酬は受け取っています。それ以上に「不登校の子どもより偉い」という報酬まで得て、何の得があるでしょうか。家の中にまで社会的地位を持ち込むことは、不登校の子どもの不安を取り除いたり、勇気や自信を育てたりしていくうえで、ちっとも役立たないと思います。


「俺が稼いでいるから、家の中でゲームをしていられるんだぞ」

と思われるかもしれませんが、そういうのは

「右手が左手の悪口を言う」ようなものです。

家族は、ワンチームになれないでしょうか。働ける人間が働き、働けない人間がいるときは他のメンバーでカバーをする、といった助け合いです。

 よく、不登校の子どもが家事をしないという不満を聞くことがありますが、背景にワンチームになり切れていない家族関係があると思います。右手が左手を痛めつければ、結局右手も大変です。家族の中に家の外の競争原理を持ち込むのは、失うものの方が多いと思います。


 家の中では、ただの家族の一員。そんな家族の中にいる子どもは、居間に出てくるひきこもりの子に多いのです。家族が家族として成り立っているということは、対人・対社会関係において、土台がすでにある、ということです。

42 質の良い睡眠は「超大事」!

不登校やひきこもりについて「解決法」を提示しているところはあちこちにあります。中でも「こんな心理療法がある」「こんな発想の転換がある」といった、認識を変える働きかけが多いと感じます。しかし、私たちはその前に「質の良い睡眠をとれているか」を気にします。

 
 不登校やひきこもりそのものは、「サイン」です。表層的にそうした行動にあらわれているだけなので、学校に戻したり就職させたりすれば解決するほど単純なものではありません。


 基本的に心の中で起きていることが、社会的行動を極端に回避する行動にあらわれています。そのとき、心を「脳」に置き換え、「脳の認識を変えるアプローチ」が多いわけですが、「睡眠の質が高くなって、脳のコンディションが良くなること」のほうを先に考えたいのです。


 負の刺激を避けることにある程度成功しているのですから、心理的安全性を高め、家族間の信用関係を築き、そして睡眠の質を高めていくと、過敏さが軽減されたり、気分が良くなったりする人が多かったです。それが結果的に回避行動の緩和につながることが多々あるのです。


 ただ、「睡眠改善指導に従わせる」ような取り組みは、面倒な、つまらない、味気ない、屈辱感を伴うものとして受け取られやすいものです。したがって、心理的安全性を高め、信用関係が築けている前提で、本人の納得をじゅうぶん得てからになります。睡眠の質の悪化は、なかなか自分で気づいて自分で改善しにくいものなので、サポートがあったほうが定着しやすいです。


 イーズでは、これまで数百人の睡眠改善の継続的サポートをしてきました。気持ちの良い眠りは、だれにとっても大切なことです。親の方にも、ぐっすり眠っていただきたいと思います。

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