「安静」の誤解
「安静にして様子をみましょう」は、
からだの不調のときに出てくる発想です。
こころの場合、家にいて寝ていても安静にできるかといえば、
そうではありませんよね。
ところが、在宅型不登校の場合、
「からだを安静にさせて様子をみている家庭」というのは、
ごくあたりまえに存在しています。
では、どんなふうに過ごしているかというと、
「すごく刺激性の高いゲームを長時間やりこんでいる」
といったことが、これまたごくあたりまえに行われています。
そんなとき、心が安静にできないから刺激性の高いゲームを取り上げたらいいでしょうか。
私は、そうした時期の子どもにとって、その刺激性の高いゲームこそが、
心理的安全に寄与しているのではないかと考えています。
なぜ人はジェットコースターに乗ったり、バンジージャンプを娯楽とするのでしょう。
私に言わせれば、あれは臨死体験です。
あのような臨死体験が娯楽になる仕組みは、
「あれくらいの強刺激になると、その瞬間と直後は思い悩んでなんていられないから」
ではないでしょうか。
ホラー映画も同じような効果があるようです。
「こころの安静」は、しばしば「嫌な記憶」によって乱されます。
そのとき、体を安静にしてしまいますと、
どんどん嫌な記憶が自動的に脳内再生されます。
だったら、眠りの世界に逃げ込んでしまうほうがマシです。
しかし、その眠りによって、夜間の質の高い眠りが邪魔されてしまうかもしれません。
「からだの安静と、こころの安静はいっしょではない」です。
しかし、からだとこころはつながっています。
たとえば、マッサージを好む人は、体が楽になるだけではなく、
マッサージによって心理的にリラックスしますよね。
つまり、こころの安静は、
負の刺激を遠ざけるだけではなく、
負の記憶が何度も自動的に蘇えったり、
不安が何度もぶり返すことを邪魔していく必要があるわけです。
そのために、こころやからだに、その子が受け入れやすい刺激が必要です。
そこを飛ばして、
生活習慣の改善とか、学歴とか、就労訓練とかにこだわるというのは、
あえてその効果を引き下げるようなものではないか、と思っています。
からだの不調のときに出てくる発想です。
こころの場合、家にいて寝ていても安静にできるかといえば、
そうではありませんよね。
ところが、在宅型不登校の場合、
「からだを安静にさせて様子をみている家庭」というのは、
ごくあたりまえに存在しています。
では、どんなふうに過ごしているかというと、
「すごく刺激性の高いゲームを長時間やりこんでいる」
といったことが、これまたごくあたりまえに行われています。
そんなとき、心が安静にできないから刺激性の高いゲームを取り上げたらいいでしょうか。
私は、そうした時期の子どもにとって、その刺激性の高いゲームこそが、
心理的安全に寄与しているのではないかと考えています。
なぜ人はジェットコースターに乗ったり、バンジージャンプを娯楽とするのでしょう。
私に言わせれば、あれは臨死体験です。
あのような臨死体験が娯楽になる仕組みは、
「あれくらいの強刺激になると、その瞬間と直後は思い悩んでなんていられないから」
ではないでしょうか。
ホラー映画も同じような効果があるようです。
「こころの安静」は、しばしば「嫌な記憶」によって乱されます。
そのとき、体を安静にしてしまいますと、
どんどん嫌な記憶が自動的に脳内再生されます。
だったら、眠りの世界に逃げ込んでしまうほうがマシです。
しかし、その眠りによって、夜間の質の高い眠りが邪魔されてしまうかもしれません。
「からだの安静と、こころの安静はいっしょではない」です。
しかし、からだとこころはつながっています。
たとえば、マッサージを好む人は、体が楽になるだけではなく、
マッサージによって心理的にリラックスしますよね。
つまり、こころの安静は、
負の刺激を遠ざけるだけではなく、
負の記憶が何度も自動的に蘇えったり、
不安が何度もぶり返すことを邪魔していく必要があるわけです。
そのために、こころやからだに、その子が受け入れやすい刺激が必要です。
そこを飛ばして、
生活習慣の改善とか、学歴とか、就労訓練とかにこだわるというのは、
あえてその効果を引き下げるようなものではないか、と思っています。