「寄り添い」の誤解 その2
人間は矛盾した欲求や考えを保持できる高度な脳を持っています。
しかし、この矛盾した欲求や考えは、
「同時」だったり、ときにはズレて保持されています。
「夕飯つくるのめんどくさいなあ。家族で外食しちゃおうかな」
という考えと、
「でもな、今月は赤字だしな。買っておいたお肉も賞味期限だしな」
という考えは、交互に出てきたりします。
不登校やひきこもり生活の初期は、
とにかく「やめたい」「逃げたい」「行きたくない」なので、
比較的矛盾がないんですね。考えがまとまっています。
ところが、家の中で安心して過ごせるようになってくると、
逆に苦しくなってくることがあるわけです。
「ああ、いつまでもこんなんでいいんだろうか?」
という思い、中長期的な不安が底から浮かんでくるからです。
「家の中で安心させてあげるのがいちばんです!」
と言う支援者は多いのですが、
じつは「家の中で安心すると不安になってくる」ということもあるんです。
「短期的不安が軽減されると中長期的不安が大きくなってくる」わけです。
だから、
「いいんだよ、元気になるまでいつまでも家にいていいんだよ」
という声掛けは、将来に対する大きな不安を刺激するかもしれないんです。
「親はうるさく言わないし、ゲームもネットも好きなだけさせているし、
毎日が日曜日みたいな生活をさせてあげているのに、
なんでうちの子は、激しく落ち込んでいるのだろうか?」
と疑問を感じる人もいると思いますが、不思議なことではありません。
短期的欲求と中長期的欲求を
まったく同時に満たすことは難しいです。
たとえば、言葉や行動は、一度にどちらかひとつしかできません。
「外食します」と「家でご飯作ります」は
同時に口に出したり、同時に実行できません。
でも、時間をズラすことで実行できます。
もしも「寄り添い」を考えるのであれば、
心理的不安や恐怖心を理解して回避行動を基本としつつも、
中長期的不安にも配慮して、
小規模に中長期的安心につながる取り組みを
積み重ねる提案をしていくこと、
あるいは中長期的欲求を抑えて回避行動を優先させる提案を
することになるのではないでしょうか。
「中長期的安心への対応」と「短期的安心への対応」は
互いに反するので、どちらをサポートしても、
「不安だ」「めんどう」「いやだ」「意味わかんない」「どうせ無駄」
のような反応や、
「このままはいやだ」「挽回しないと」「親に迷惑をかけられない」
のような反応が生まれてきます。
これだから、
大ぶろしきに「寄り添います」と言い放たれるのはキライなのです。