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ブログ『誤解だらけの不登校対応』

「基礎学力」の誤解

「学力」とは何でしょうか?大辞泉によると「学習して得た知識と能力。特に、学校教育を通して身につけた能力」とあります。狭義では「学校学力」であり、「教科学習能力」なんですね。ですから狭義における「基礎学力」は「読み書きそろばん(算数)」になります。


学力が「学校で身につける能力」だとしますと、不登校では身につけにくいと考えられるわけで、親としては「せめて基礎学力くらいは」と考えても当然です。だから「学校は行かなくてもいいけど、せめて漢字・計算ドリルくらいは」とか「CMでやってる一般的な通信教材くらいは」と考えやすいのではないかと思います。とくに小学生の不登校の親にはそういった傾向があるように思います。まだ諦めきれないわけです。


私は思うのですが、この「基礎学力」、「基礎」という字に問題があるように思います。何せ基礎です。親は「基礎学力こそ基礎中の基礎である」と考えてしまいやすいのです。しかし、私が考えるに「基礎学力」のさらに下にもっと重要な基礎があります。それは「学習の基礎」です。


基礎学力というのは、「学力の基礎」です。でも、基礎学力自体は「学習の基礎」の上に成り立っているものなので、基礎学力を身に着けさせたければ、基礎学力からスタートするのではなく、「学習の基礎」から始めなくてはなりません。


「学習の基礎」は、「自ら積極的に学ぶ」とか「思考・判断・表現力」といった、「いかにもそれっぽい教育的なもの」ではありません。そんなの、基礎学力の獲得より難しいじゃないですか。


人がなぜ言葉を話すかといえば、最初はたいてい「お母さん(お父さん)とお話したいから」「不快を訴えたいから」「欲しいものをよこせと言いたいから」じゃないでしょうか。「言葉を身に着け、思考・判断・表現力を身に着け、生きる力として・・・」なんて赤ちゃんは考えていません。言葉はコミュニケーションとともに獲得されていきます。


べつに何でもいいんですが、たとえば漢字ドリルに取り組むとします。「仕方なく」とか「嫌々」「渋々」でも、それなりにやったら、効率は悪いし定着しにくいけど、それでもいっぱいやったら、やっていないよりも基礎学力はちょっと身に付きます。「自ら進んでやらないと、生き生きと目を輝かせてやらないとダメなんだ!」なんて教育的すぎる考えでは、基礎学力のハードルを高め、学習の基礎にダメージを食らわせるだけです。


そうでなくとも、昨今は「基礎学力って、読み書きそろばんじゃなくて、もっとこういうレベルが高くて深いものじゃないか」と言って基礎学力の範囲をぐぐっと広げ深める傾向がありますから、基礎学力の偏差値が爆上がりです。ほんとは、受験勉強含め小中学校の内容は全部基礎学力で、昨今は「生きる力」まで求められるので、基礎学力自体、手に入りにくくなっているように感じます。


学習の基礎は、案外「まあ、やってもいいかな」「まあ、やらないのも何だしな」「まあ、ちょっとはやってみたいかな」「まあ、少しだけなら」「まあ、べつに暇だし」「まあ、じつはやりたいかな」「まあ、できたら嬉しいかもな」「ほんとはやりたくないけどな」みたいなものなんじゃないかと思うんです。日常からそんなに大きくかけ離れていない感じ。「やぶさかでない」感じ。とくにワクワクしていない職業人が仕事に行くときの感じです。


私などは勉強ギライがとても多いところで仕事してきましたから、あんまり教育的なこと言う人の教えが役立たないんです。「まずはその子を屏風から出してください」みたいな感じです。だいたい、勉強ギライが勉強はじめるときって、「まあ、しょうがないな」「これ以上逃げ切れねえな」くらいからですよ。全然、教育の理想とはほど遠いです。でも、普通に学校で何時間も勉強している子じゃないんですから。「勉強とは離婚しました」みたいなお子さんだっています。


学習の基礎を考えますと、「現状」というものからあまりかけ離れないことが重要です。たとえば皆さんでも、現状から大きくかけ離れた内容を理解しようとすると、興味関心意欲が一斉に低下し、脳が活動を拒否し始めますよね。「超難しい興味がない分野の論文」とかそうじゃないでしょうか。それがOKな人は、まったく興味が持てない、すでにわかりすぎるくらいわかっている子ども向け教育アニメを100時間繰り返し観続けることを思い浮かべてみて欲しいと思います。内容そのものの難しさというよりも「意味を獲得して脳を動かす指令が出てくるかどうか」です。


学習の基礎というのは「その人の脳が受け入れるもの」です。「その人の脳が学ぶ」ので。よく考えてみてください。学習の基礎は「これから別途育てる」のではなくて、「すでにもうある」んですね。「その子の現状の脳と、それが受け入れるもの」です。


たとえば「オンラインゲームざんまい」だとしたら、その子の脳はそっち方向を受け入れやすいわけです。すでに「教科学習は劇毒物である」と学習しているかもしれません。そのような「学習の基礎」を前提としますと、「その子が受け入れられやすい基礎学力ってどんな感じ?」から考えます。すると、答えは自ずと


「できそうな、ほんのちょっぴり」


になるはずなのです。


注)イーズは「勉強したい」とか「勉強しなくてはならない」といったニーズをお手伝いしており、イーズが「勉強させろ」と言っているわけではありません。
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