勉強ギライ その1
不登校に限らず「勉強ギライ」はたーくさんいます。ここでは「勉強ができるのに、勉強が嫌いな子」は除いてしまいます。
学校に行っている子は、学力がついているかどうかはわかりませんが、平日は毎日5、6単位時間の授業を受けています。しかし、「不登校&勉強ギライ」ですと、その有り余るほどの時間をゲームなどで費やしますので、親の多くは「このままでいいんだろうか?」と思うようです。
この「このままでいいんだろうか?」という問題設定は、やめたほうがいいと思います。なぜなら、最後は「色々考えたってできないのだから、このままでいくしかない」という結論になるからです。だから、問題設定は「何ならできるのだろうか?」です。
私は「勉強させるべき」とか「勉強ができないと将来困るだろう」とか、そういう議論に飽きました。いつも思うのは「じゃあ、本人が前向きに取り組むようにすればいいじゃないか」ということです。「べき」ばかりで方法のアイデアがない話など、正直、聞く価値があるとは思えません。
また、「既存の教科学習ではない学びがある」とか「子どもの自主性・自発性を育てる体験的な学びを」とかいう主張をお持ちの方は、どんどんおやりになればいいと思います。基本、ホームエデュケーションっていうのはそういうことをしたい人たちが選ぶと良いものですから。
ただ、非常に多くの勉強ギライの子どもたちは「これぞ新しい学校外の学びだ」といった学習にも乗ってこず、最新のオンラインゲームのほうを好んだりしています。
子どもが勉強を避けてゲームばかりしていることを問題視している人はたーくさんいると思います。私は、その議論にも実は飽きています。問題視だけで、解決策が、せいぜい「子どもにゲームをやる時間を決めさせる」みたいなものに留まっているからです。
じつは、子どもが勉強に向かわずにゲームなどに没頭するには、ちゃんと理由があるんだと考えます。非常にたくさんの子どもたちが同じような行動をとるには、それなりの理由があるんだと思うのです。というかあるんです。そういった子を観察すると、「意欲をもって」「自主的・自発的に」「粘り強く」「さまざまな角度から考えて試行錯誤し」「探究的に」取り組んでいるわけです。「学習の理想」どおりなんです。
いっぽう、勉強、とくに学校の教科学習を極端に回避する子に、「君はなんで勉強をしないんだい?」と聞きますと、「つまらない」「意味がわからない」「やる気がわかない」といった表現をしたりします。まさに、そのまんま、言っているとおりだと思います。
よく、「子どもから”なぜ勉強しなくちゃいけないの?”と聞かれたら」というお題がありますが、大人が「これは秀逸な答えだ」と思っていても、子どもに響くかといえば、そうでもないんじゃないかと思っています。勉強ギライの子どもにとって、とにかく勉強はつまらなくて、意味がわからなくて、やる気がわかないものなのです。
冒頭で「勉強ができるのに勉強が嫌いな子」を除く、と述べました。ここでは「勉強ができない、勉強が嫌いな子」がテーマです。彼らにとっての「勉強」は、すなわち「勉強ができないという劣等コンプレックスが刺激されストレスが増大する行為」です。したがって、「勉強すると、こういうメリットがあるよ」は通用しないわけです。
「勉強ができない勉強嫌い」や「かつてできていたが今はできない勉強嫌い」は、「勉強に関する劣等コンプレックスが刺激されないこと」がもっとも重要でしょう。彼らは「勉強に触れると劣等コンプレックスが刺激され、心理的にストレスが生じる」ので積極的に回避している、そう考えるわけです。
学校に行っている子は、学力がついているかどうかはわかりませんが、平日は毎日5、6単位時間の授業を受けています。しかし、「不登校&勉強ギライ」ですと、その有り余るほどの時間をゲームなどで費やしますので、親の多くは「このままでいいんだろうか?」と思うようです。
この「このままでいいんだろうか?」という問題設定は、やめたほうがいいと思います。なぜなら、最後は「色々考えたってできないのだから、このままでいくしかない」という結論になるからです。だから、問題設定は「何ならできるのだろうか?」です。
私は「勉強させるべき」とか「勉強ができないと将来困るだろう」とか、そういう議論に飽きました。いつも思うのは「じゃあ、本人が前向きに取り組むようにすればいいじゃないか」ということです。「べき」ばかりで方法のアイデアがない話など、正直、聞く価値があるとは思えません。
また、「既存の教科学習ではない学びがある」とか「子どもの自主性・自発性を育てる体験的な学びを」とかいう主張をお持ちの方は、どんどんおやりになればいいと思います。基本、ホームエデュケーションっていうのはそういうことをしたい人たちが選ぶと良いものですから。
ただ、非常に多くの勉強ギライの子どもたちは「これぞ新しい学校外の学びだ」といった学習にも乗ってこず、最新のオンラインゲームのほうを好んだりしています。
子どもが勉強を避けてゲームばかりしていることを問題視している人はたーくさんいると思います。私は、その議論にも実は飽きています。問題視だけで、解決策が、せいぜい「子どもにゲームをやる時間を決めさせる」みたいなものに留まっているからです。
じつは、子どもが勉強に向かわずにゲームなどに没頭するには、ちゃんと理由があるんだと考えます。非常にたくさんの子どもたちが同じような行動をとるには、それなりの理由があるんだと思うのです。というかあるんです。そういった子を観察すると、「意欲をもって」「自主的・自発的に」「粘り強く」「さまざまな角度から考えて試行錯誤し」「探究的に」取り組んでいるわけです。「学習の理想」どおりなんです。
いっぽう、勉強、とくに学校の教科学習を極端に回避する子に、「君はなんで勉強をしないんだい?」と聞きますと、「つまらない」「意味がわからない」「やる気がわかない」といった表現をしたりします。まさに、そのまんま、言っているとおりだと思います。
よく、「子どもから”なぜ勉強しなくちゃいけないの?”と聞かれたら」というお題がありますが、大人が「これは秀逸な答えだ」と思っていても、子どもに響くかといえば、そうでもないんじゃないかと思っています。勉強ギライの子どもにとって、とにかく勉強はつまらなくて、意味がわからなくて、やる気がわかないものなのです。
冒頭で「勉強ができるのに勉強が嫌いな子」を除く、と述べました。ここでは「勉強ができない、勉強が嫌いな子」がテーマです。彼らにとっての「勉強」は、すなわち「勉強ができないという劣等コンプレックスが刺激されストレスが増大する行為」です。したがって、「勉強すると、こういうメリットがあるよ」は通用しないわけです。
「勉強ができない勉強嫌い」や「かつてできていたが今はできない勉強嫌い」は、「勉強に関する劣等コンプレックスが刺激されないこと」がもっとも重要でしょう。彼らは「勉強に触れると劣等コンプレックスが刺激され、心理的にストレスが生じる」ので積極的に回避している、そう考えるわけです。