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ブログ『誤解だらけの不登校対応』

「置き換え」の想像力

あなたには極端な食べ物の好き嫌いがありますか?ある人にはわかりやすい話です。


私が昔、小学校の教員だったころのことです。私は給食の好き嫌いを問題視する教員ではありませんでした。私が給食で気にしていたのは2人。「サバアレルギーなのにこっそりサバを食べようとする子」と、「野菜を全く食べない超偏食の子」でした。


野菜嫌いは珍しくもありません。だいたい小学生なんて、何かしら好まない野菜があるものです。しかし、まったく野菜を食べない、ふだん食べているものがすごく限定的、となると、担任としては栄養バランスが気になります。


そこで、親御さんの了解も得て、あるとき3ミリ四方のレタスを「ほんのちょっと食べてみない?」と聞いたのです。すると、その子はみるみる顔が曇って、絞り出すように「プラスチックみたいで食べられない」と言ったのです。そのときのことは忘れません。私は理解しました。その子の脳は、レタスを食品として認識できないのです。


私たちは外見ではわからない個人差を持っていて、中には「ごく一般的なことも、とてつもなく大きなストレス、場合によっては恐怖、禁忌、重大事故、災害になる」ということです。このことを理解するためには、想像力が欠かせません。ただし、その想像力というのは「相手の身になって考える」では不十分かもしれません。


たとえば、私がレタス3ミリ四方を食べる立場になってみたとしましょう。どうってことはありません。「なんでこれしきのことをしないんだ?甘えてるんじゃないか?親が食育をしていなかったんじゃないか?」と考えるかもしれません。この場合の想像力で必要なのは「置き換え」です。私が私のままで、「同じようにどうしても食べることができないもの」を想像するわけです。私が私のままで食品とは思えないものを食べろと言われたらどう感じるか、です。それと同じことが起きたのです。


不登校やひきこもりの現象について理解しようと思うとき、「自分だったら」は、相手の身になって考えているようでいて、ちっとも身になっていません。「俺が子どものときにはな」とか「まったく今どきの子どもというのは甘えがすぎる」のような考えになる人は、置き換えをしていません。「あなたが、泣いてわめいて、死ぬの殺すの言ってでもしたくないこと」と同じなわけです。「ねえ、ちょっとでいいからさ、たった3階から飛び降りるだけだよ」のようなことだと置き換えるのです(3階を飛び降りれる人は30階に置き換えて)。


実際、学校に行きたくなくて自殺してしまう子どもや、働きたくなくて親を殺す若者たちもいるくらいですから、理解しようと思ったら、その想像力は「置き換え」に回したほうがいいと思うのです。


あなた自身が、どうしても行きたくない、行っても悪いことしか起きない、行くことを考えると暗澹とした気持ちになり、拒否反応が起きてしまう、そんな不安・恐怖・警戒心が起きるようなことは何でしょうか。
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