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ブログ『誤解だらけの不登校対応』

「不登校対応の段階」

不登校は、サインですから、登校をゴールにしている対応は間違いです。また、「定時制・通信制高校や高認で卒業(または卒業程度)資格をとれば不登校はチャラ」のような考えも似たようなものです。同じく「大学・短大・専門学校を卒業すれば不登校は過去のもの」みたいな考えも同じです。


だいたい、小中学校に戻す、高校に進学させる、大学等に進学させるといったサポートは表面的であり、本質的ではないサポートです。私は、高校や大学等も含めて「学校に戻すことを目指す専門家」というのは怖い存在だと思っています。なぜなら、多くの学校復帰者たちの陰で、ダメージを負う子どもたちがいるだろうからです。ひきこもりの引き出し業者と似ているように感じます。学校復帰と同じく、就労すれば解決といった見方・考え方は危険です。何が危険か。問題が深刻化する危険です。何が問題か「自他への不信が深刻化する問題」です。


不登校は、原因よりも「欲求のバランス」を見ることだと思います。不登校初期によく見られるのは学校へ行くことへの強い不安・抵抗感・恐怖心です。そして、家にいることが許されると、ゲームや動画視聴やSNSといったオンライン上の娯楽や、趣味への没頭が始まるでしょう。安全欲求は原始的欲求ですから、かなり強固です。そして社会的欲求の不足はWEBや娯楽などの世界で当座満たしていきます。不登校した子どもの行動はじつに理にかなっています。


ただ、中長期的欲求の中に入る社会的欲求は、バーチャル世界だけで満たされるかといえば、そうでない子どものほうが多いです。強い不安から社会的行動を極端に回避し、仮想空間で社会的欲求を満たそうとしても限界を感じたとき、「社会的欲求不満」になるわけです。だから、衣食住が保証され、勉強も仕事もせず、好きな時間に起きて好きな時間に寝て、ゲーム三昧、趣味娯楽三昧なのに「生きづらい」のです。これは、はたで見るよりもじつはかなりしんどいです。贅沢というのは見ている側が思うことです。見ている側の納得重視なら贅沢ということになるでしょう。ただ、当人の脳内ではかなりしんどい状態です。人は社会的動物ですから、「社会的生きづらさ」はときに死がよぎるほどのしんどさです。


なので、社会的欲求不満状態の子どもに「今のままでいいんだよ」は通用しません。かといってリアル世界で社会的欲求を満たすことは恐ろしくてできない。このジレンマの段階が、「しんどいけれども大事な段階」です。「初期の避難の時期を超えて、当面の脅威から逃れたものの、避難してばかりでは今後の自分の社会的地位・プライド・人間関係・お金などが危うい、でも動けない、動きたいと思えない。だが・・・」この状態になってくると、イライラするし、気持ちも荒んでくるしで、そばにいる家族も大変でしょう。ただ、この段階は、本人の社会的欲求が強いことを表しています。


痛み・苦しみを伴いますが、この段階は「良くないこと」と言い切れません。「正常な反応だから」です。ある程度の成長がなければ、この段階の苦しみはないので。このとき、表面だけ見ていると「イライラや荒れ」ばかり見てしまいます。わが子といえど不愉快で、嫌悪の感情が湧いてくるようなことがあるでしょう。「いい加減にしてくれ」と。まあ、表面的にはまったくそういう反応を引き起こすような言動ですから、それもまた自然です。


ただ、少しでも余裕があるのであれば、イライラや荒れた言動もまた不登校と同じで問題の表出、サインであると考え、「強すぎる不安・恐怖心・抵抗感のために身動きとれないこと」のほうに目を向けてはどうかと思います。暴力的に荒れているほど、恐怖心が強いく、絶望が深い傾向があるように思います。そのための自暴自棄です。自分を棄てていますから、悪いことをします。


強すぎる不安・恐怖心・抵抗感は、家族も含めた他人の力があったほうがいいです。べつに専門家じゃなきゃいけないということはありません。専門家じゃないほうがいいこともあります。孤独だと自分の内側から湧き上がる感情だけが唯一の真実となってしまいます。


この「強すぎる不安・恐怖心・抵抗感」ですが、ついつい「不安・恐怖心・抵抗感がいけない」と受け取られやすいのですが、そうではありません。「強すぎる」がいけないのです。いけないというか、「そこに可能性がある」わけです。「過剰」なのですから、小さくすることに問題がありません。むしろ、小さくしたほうが安全性は高まります。


「どうしたら過剰な不安は小さくなるか」これは別の機会に書きたいと思います。

























ほんとうにチャラになることがあります。それは「自他への信用」がチャージされたときです。
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