「どうしたらいいか」で行きづまったら
すでに世の中は、不登校対応の情報があふれています。そんな中、何をどうしていったらいいかわからなくなってしまう保護者は少なくないと思います。子どもの日々の様子を見て、不安や焦りがこみあげたり、消化不良のまま抱え込んで強いストレスを感じながら生活している保護者もたくさんいらっしゃいました。
もし、そのような状態にあるとしたら、おすすめしたいのは「シンプルに『その子は親の話にどの程度耳を傾けるか』」をよーく考えてみることです。ほぼ傾けようとしなくてもけっこうです。そのことで保護者をジャッジしようということではないのです。
よーく考えてみると、「完全な拒否」というのはかなり少ないと思われます。そのように見えたとしても、たいてい僅かな接点があるはずです。
世の中の不登校対応や教育的なアドバイスというものは、しばしば「目標や理想が先立っている」ものです。「こうすべきだ。そのためには・・・」といったものです。しかし、現場そのものである保護者が「何をどうしていいかわからない」という状態にあったとすれば、それはそれらのアドバイスが「使えない」からでしょう。
そこで、考えるべきは「何ならできるのか」ではないでしょうか?「するべきこと」から考えるのではなく、「今できそうなこと」から考えるのです。
たとえば「食べ物に関することなら、少しはやりとりできるかもしれない」なら、「夕飯は肉と魚、どっちがいいか」とか「アイスクリームを買ってきたがどれを食べたいか」といったことです。理想とか教育は関係ありません。単なるやりとりです。
「単なるやりとり」は、「相互コミュニケーション」そのものです。指導や援助ではなく、お互いに情報のやりとりをしています。この「気兼ねなく情報のやりとりをすること」は、一か八かの教育的アプローチをかけるよりも低リスクです。
つい「親らしく」「親の責任として」などと気負ってしまうかもしれませんが、たとえばリアルな他者とのコミュニケーションを拒絶していた人が、コンビニで買い物をすることができるようになったときの達成感を考えてみてください。「気兼ねなくやりとりすること」は、一般的には簡単に思えることであっても、困難な人からすればそうではないわけです。
日頃、「今日は午後でかけるよ」「明日業者が来るよ」「夜はこれを食べなさい」など、一方的に伝達するだけのコミュニケーションから、短い1ターンのやりとりをするわけです。「どっちでもいい」「何でもいい」「わかんない」もありです。
もし、そのような状態にあるとしたら、おすすめしたいのは「シンプルに『その子は親の話にどの程度耳を傾けるか』」をよーく考えてみることです。ほぼ傾けようとしなくてもけっこうです。そのことで保護者をジャッジしようということではないのです。
よーく考えてみると、「完全な拒否」というのはかなり少ないと思われます。そのように見えたとしても、たいてい僅かな接点があるはずです。
世の中の不登校対応や教育的なアドバイスというものは、しばしば「目標や理想が先立っている」ものです。「こうすべきだ。そのためには・・・」といったものです。しかし、現場そのものである保護者が「何をどうしていいかわからない」という状態にあったとすれば、それはそれらのアドバイスが「使えない」からでしょう。
そこで、考えるべきは「何ならできるのか」ではないでしょうか?「するべきこと」から考えるのではなく、「今できそうなこと」から考えるのです。
たとえば「食べ物に関することなら、少しはやりとりできるかもしれない」なら、「夕飯は肉と魚、どっちがいいか」とか「アイスクリームを買ってきたがどれを食べたいか」といったことです。理想とか教育は関係ありません。単なるやりとりです。
「単なるやりとり」は、「相互コミュニケーション」そのものです。指導や援助ではなく、お互いに情報のやりとりをしています。この「気兼ねなく情報のやりとりをすること」は、一か八かの教育的アプローチをかけるよりも低リスクです。
つい「親らしく」「親の責任として」などと気負ってしまうかもしれませんが、たとえばリアルな他者とのコミュニケーションを拒絶していた人が、コンビニで買い物をすることができるようになったときの達成感を考えてみてください。「気兼ねなくやりとりすること」は、一般的には簡単に思えることであっても、困難な人からすればそうではないわけです。
日頃、「今日は午後でかけるよ」「明日業者が来るよ」「夜はこれを食べなさい」など、一方的に伝達するだけのコミュニケーションから、短い1ターンのやりとりをするわけです。「どっちでもいい」「何でもいい」「わかんない」もありです。