「かわいそう」ではなく「マイノリティである」ということ
世の中、不登校を学校に戻すとか、ひきこもりを社会に出すという「適応指向」のサポートが溢れています。しかし、世の中はマジョリティの人々に都合よくできているため、マイノリティの人たちは、どうしても「合わないものに合わせた生活」を送らざるを得ず、ストレスを大きめに引き受けねばなりません。マジョリティに属する人も、もちろん社会に適応するにはそれなりのストレスを引き受けていますが、その度合いの大きさが違うと理解して欲しいと思います。本当に適応を追求するのであれば、マイノリティの人の適応ストレスが小さくなるような制度を考えるほうが良いと思います。
適応指向以外のサポートでも、「気の毒」「かわいそう」といった同情的なサポートも散見します。たしかにすごく困っているときは、差し伸べられた手をありがたく思うこともあると思いますが、基本的にサポートには尊重の姿勢が高度に求められると思います。「かわいそうな人を優しく助けてあげる」といった意識は厳に慎むべきです。そういった意味で、私たちは「寄り添う」という言葉を使いません。
社会的マイノリティの立場になりますと、社会的価値を軽んじられるような、自尊心を傷つけられるような思いをするはずです。不登校もひきこもりも、マイノリティとして考えると、問題視され、その価値を低く見られる風潮、排除しようという風潮がまだまだ蔓延しているように思われます。
不登校やひきこもり状態の人たちが、社会で生きにくい最大の理由は、彼ら自身ではなく、彼らのプライドが傷つけられ、自信や社会生活への信用・期待を喪失してしまうことにあると考えます。
マイノリティとして認め、理解されにくい状態にあり、不便な状態にあるだけなのだという理解を、まずは家庭内で持つことで、ニュートラルに接することができると思います。問題児でもなければ、かわいそうな人でもない、他のメンバーと同じ、ただの家族です。