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ブログ『誤解だらけの不登校対応』

「無理」の誤解



 いま「無理」という言葉は「嫌だ」「やりたくない」の意味で使われたりしています。しかし、元は「道理が通らないのでやる意味がない」とか、「実現不可能」とか「強引に行う(無理やり)」といった意味です。つまり、無理という言葉は本来ハードなものでしたが、今はソフトな拒絶まで含む幅広い言葉になっています。



 この「無理」という言葉は、不登校やひきこもりの子どもをめぐる社会的チャレンジの場面で、しばしば出てくる言葉です。その言葉への対応には、慎重な見極めが求められます。



 それが本来の意味で「無理」だとすれば、そのチャレンジは行う意味がないか、やったとしても実現困難で、強引にやったとしてもその後はうまくいきません。脚を骨折して手術をしたばかりの人に「走ってみましょう」と提案するようなものです。


 


 しかし、この「無理」という言葉によって「極端な回避が永続される」という側面もあります。それは「理があるものを無理といって拒否し続ける場合」です。理のある社会的チャレンジは、無理なものではなく、その人の持てる能力の発揮を助けたり、心身の健康を保持・向上させたり、社会的自立を実現していくために有効です。


 


 この「無理な社会的チャレンジ」と「理のある社会的チャレンジ」が非常に判別しづらく、「その子の状態を無視した無謀なチャレンジの強制」である場合もあれば、「適切なチャレンジの提案をことごとく拒否する・させる」という場合もあるわけです。


 


 そして、ひきこもり型不登校にあっては、「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」がごとく、社会的チャレンジを極端に拒否する子どもや、子どもが拒否したら何でもそのまま受け入れる親が多いのです。


 


 その結果、時間の経過に伴い、社会的行動の選択肢がどんどん狭まっていったり、心身の健康を損ねたりすることもあるのですが、もっとも恐れるべきは、「焦った親や本人が、いきなり無理なチャレンジをし始めること」です。


 


 「回避する日常に耐え切れなくなり、焦って一か八かのチャレンジに打って出る」というケースは、時に親を喜ばせます。「待っていた甲斐があった。ようやく本人が動き出す気になった!」と、そのチャレンジを歓迎し、応援したくなるわけです。


 


 たしかに、その賭けは成功する可能性を秘めています。場合によっては劇的な変化で一気に社会的・経済的自立につながり、不登校やひきこもりが遠い過去の話になることもあります。その魅力にとりつかれる親子は少なくありません。


 しかし、賭けというものは負ける人のほうが多いわけです。確約された成功がないとしても、「事前に時間をかけて準備すること」や「段階を経て練習を積み重ねること」や「自信を動機としていること」などがあった場合と比べますと、やはり追い込まれてからのいきなりのチャレンジは失敗しやすいのです。


 


 「あれも無理、これも無理」と極端な回避を繰り返していたのに、突然無理なチャレンジを賭けのようにしてしまうのは、「成功を強く欲するいっぽうで、成功を得やすくする地道な練習や準備を軽視するから」です。このような「いきなり社会的チャレンジをする家庭」は、じつに多く、多いために成功例も少なくありません。その成功例があちこちで紹介されてしまうので、さらに無謀なチャレンジに打って出て、そのせいで更に大きなダメージを食らって戻ってくる人が増えるわけです。


 


 こうした悲劇を食い止めるためには、「怪我をした人のリハビリ」をイメージすると良いと思います。数か月、数年ベッドに寝ていて、ある日突然歩き出そうとするのと、地道にリハビリを少しずつしていくのと、どちらが無理がないか、ということです。


 


 「無理無理と言いながら、突然大きな無理をしてしまう」これは、かつて不登校を経験した若者が、進学やアルバイト、就職にまつわるチャレンジで大きなダメージを被って再びひきこもるケースでよく見られます。お気をつけて。

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