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ブログ『誤解だらけの不登校対応』

「相談」の誤解 その1


 
 不登校に関して「相談」と言いますと、どうしても「困りごと相談」のイメージになってしまうと思いますが、いかがでしょうか。たしかに困っているときほど相談したくなるものです。


 私も、長年多くご相談いただきましたし、今も受け続けておりますが、非常に残念なことがあります。それは「不登校=困ったこと」「ひきこもり=困ったこと」というイメージが、困りごと相談によって固着化してしまうことです。


 相談機関自体、相談を「困りごと相談」と認識していることが多いのではないかと想像します。とくに「相談者に寄り添います」といった「寄り添い」を強調している相談機関は、相談者が負のストレスを抱えた「弱った」状態であると認識しているからこそ、そうした表現を使っていると思われます。


 私は、相談をする人が「寄り添ってもらえた」と感じることは大事なことだと思いますが、相談を受ける側が「寄り添います」という看板を掲げるのは、なんだか古本の「高価買取」みたいな形骸化したものに感じて、個人的に好きではありません。


 不登校は、他の困りごとと大きく異なる点があります。不登校やひきこもりは、親ではなく、子ども自身がしていることだという点が異なります。いちばん困っているのは子ども自身、これが違いです。


 「わが子の不登校で悩んで困ってストレスを抱えて孤独を感じた親が、すがるような気持で相談先を頼り、話を聴いてもらい、共感してもらって落ち着いた」とします。不登校やひきこもりで悩む親に共感して寄り添うことは、「親には」効果が絶大でしょう。でも、「その子」にはどうでしょうか。そうした相談は「子どもの不登校が親を悩ませ、弱らせている」という形になっていないでしょうか。あなたがもし不登校やひきこもり状態で、親が自分のことを悲観して悩み、外部に相談していると知ったら、どう感じるでしょうか。


 「不登校やひきこもりで悩んだ親の心が軽くなる相談」は、「子どもがストレスの発生源である」という認識を固着化させてしまう危険性があります。とくに「困った子ですね。けしからん。学校や社会に戻しましょう」といったアドバイスは、表面的な親の気持ちを支持してくれても、奥底の親心までは理解していないのではないでしょうか。


 私がまだ駆け出しだったころ、当然と考えてひたすら親の話を傾聴し続けたことがありました。気持ちが明るく軽くなったと非常に感謝されました。しかし、その方は、やがて定期的に電話をかけてこられ、喜々として子どもの悪口を延々と話すようになってしまったのです。当時の私の未熟さのせいもありますが、「不登校・ひきこもりに関する親の相談」は、ほかの困りごと相談とは根本的に異なるという点は、未だに相談機関に共有されていないと思います。


 誰かの「やらかし」を細やかに記憶し、カウンセラーなどに不満を吐き出すことは、横柄な上司、支配的な舅姑、理不尽な顧客、無礼なご近所、無理解な学校など「他人」であればいいのです。荒波を立てず、日々を生き抜く知恵です。しかし、「わが子」となりますと、話は別です。「右手が左手の悪口を言う」ようなものです。


 相談で子どもの不登校やひきこもりを根本的に受け容れることができたなら、その相談には非常に価値があったと思います。いっぽう「不登校の子どもが問題の発生源である」という認識を温存させ、親が子どもへの不満を耐えながら貯め続けては吐き出すというサイクルをつくってしまう相談は注意しなくてはなりません。


 親子の情は実に深いものだと感じています。「子どもではなく私のほうを先に助けてほしい」という親は、いることはいるのですが、少数でした。それも、心身ともに疲労が積み重なってのことでした。ほとんどの親は「困ってるのはわが子であって、その子の困りごとにどう関わればいいか悩んでいる」というのが本心でした。そういった、原初的な親心に気づき、回帰できるような相談先を選んで欲しいと願っています。
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