明るい不登校になれなくても当然
不登校やひきこもりの体験談に、以下のようなものがよくあります。
「学校が辛くて不登校になった」⇒
という、「発想の転換」→「明るい不登校」というパターンです。
日本の不登校は「学校に通うつもりだったのに不登校になってしまった」という生徒が圧倒的に多いのが特徴です。つまり、「『明るい登校』がしたかったのに不登校になってしまった」という生徒のほうが圧倒的に多いわけです。
そうなりますと、「不登校はむしろチャンス」といった明るい発想への転換を促す前に、「明るい登校ができず、暗い不登校になってしまったこと」に対して私たちは立ち止まって考えるべきでしょう。
小中学校への登校は子どもから見れば「事実上の半強制状態」であり、自由に選べる状態ではありません。日本では、楽しく通学する生活を送りたかった多くの子どもたちが不登校になっているわけです。そうなりますと、当事者の多くが実感することは「落ちこぼれてしまった」ということです。「自分なりに頑張ったけど、なじめなかった」という状態です。
そこへ「暗く考えていないで、明るく考えていきましょう」という働きかけをしても、気持ちがついていかない子どもは多いことでしょう。そこには周囲の大人たちに何かが欠けている気がします。その何かとは「無念さ」「残念さ」「悔しさ」「理不尽に対する怒り」「悲しみ」「自責感」などへの想像力ではないでしょうか。
「明るく前向きに考えましょう」と当事者にメッセージを送る前に、無念さ・悔しさ・悲しみを理解するところから始めるべきではないでしょうか。明るい不登校になれなくても、当然なのです。