「達観」の誤解
「自分には、ひきこもりを肯定したり、将来の心配をしないなどという達観はできない」ともし思われたら、それは誤解です。良くないと思っていることや危険だと思っていることを無理やり良いことや安全だと思いこむ必要はないんです。子育てを修行のように言う人がいますが、子育ては修行を修めた選ばれた人だけのものではありません。
「良いか悪いか」「危険か安全か」ではなく、「今はそうするしかない状態なのだろう」とか「そうやって自分なりに避難しているのだろう」といった「現状への理解」が必要なだけです。
「この心配を手放してしまったら、わが子が不幸になってしまうかもしれない」と思って心配を続けているのかもしれません。「わが子を不幸にしたくない」という思いは愛情ですから、持ち続けていいものだと思います。
ただ、子ども本人の操縦桿は子ども自身が握っていますから、親が子どもを心配するほどうまくいくわけではありませんよね。子ども自身が信用し、納得するのがいちばんです。
親から見ますと、「なぜこのような不合理な行動をとるのか」と疑問に思うかもしれませんが、子どもの視点から見ると「ベストではないものの、その条件下では総合的にベターな選択」だったりします。
つまり、「現状より総合的にベターな選択」ができたらいいわけです。しかし、信用できない相手の、納得できない説明では、どんな提案も受け入れるはずがありません。そうなると、親の脳裏には「強要」がよぎり、子は「拒絶」の態勢に入るでしょう。
「『諦める』とは『明らかに見る』ということだ」などと諦めを説く人もいますが、何かを諦めるということでもなく、人としてのステージを上げるといった修行でもなく、ましてや達観でもなく、「本人からしたら、今はそれが合理的なのだろうな」と想像してみるというだけのことです。