「意志の尊重」の誤解
不登校を認めている場合、親は「学校に行きたくないという意志」を尊重しています。子のひきこもり状態を認めている場合も、親は「今は就労したくない」「新たな対人関係をつくりたくない」「外出したくない」といった「意志」を尊重していると言えます。
不登校やひきこもりに対して肯定的な人々は、しばしば「意志の尊重」の重要性を説いています。私も重要性に関しては同感です。しかし、この「意志の尊重」もまた、しばしば独り歩きしています。とくに明確な「意志」を持ちにくい子の頭に浮かぶのは、もっぱら刹那的な欲求や、面倒なことを避けたい欲求に関することです。
最たる例は、親が子どもの求めを何でも受け入れ、屈服している状態です。このようなケースの場合、従来は「親の甘やかしすぎ」とされてきましたが、もしかすると「意志の尊重を極端に実現しようとした結果」なのかもしれません。
善良で真面目な親が、わが子にひたすら寄り添おうとして「子どもが言ったこと」に従うことが「意志」だと誤解した結果、子どもの刹那的欲求にばかり対処してしまう状態になることは悲劇です。子どもはそのような親を信用しないからです。
似たものに「自己決定の尊重」があります。これは「あなた決めたんだから、あなたの責任だ」という「自己責任化」の恐れがあります。「意志の尊重」と「自己決定の尊重」の組み合わせが誤解のあるまま突き進むと、子どもからこう見えてしまうかもしれません。
「親はしっかり意志を尊重し、当人に任せているのできちんと対応しています」が、もしも子どもの耳に「親はやることをやっています。うまくいかないのは全て本人のせいです」と聞こえていたとしたら・・・。
誤解が親子間の断絶につながらなければいいのですが。