子どもに押し切られる親・押し切られない親 (その2)
「問題視」には当然、否定的なニュアンスが含まれます。
そのため、親の中に「子どもに対する否定的感情」を生みやすいのです。
「いいえ、私は子どもを否定的に見たりしてはいません」とおっしゃる方も多いのですが、
では、言い方を変えましょう。
「子どもから見て、親から否定的に思われているように感じられる」のです。
つぎに、親が問題視するポイントは、要するに
「家の中で鬱々としていたり、自堕落に見えたり、不健康に見えたりする生活を続けていて、
ちっとも今後の自立に向けた行動が見えてこず、何をどう考えているのかわからないこと」
になりやすいと思います。
だいたい、何をどう考えているかといえば「本人が考えてない」ので、
親がわからないのは当然です。
ぱっと見ればすぐわkるはずなのです。
「先のことを考えたくない、刹那的な毎日を送っている人のいかにもとりそうな行動」
をしているのに、そのことがなぜかわからないのです。
「いやいや、親だからそんなことは百も承知だよ」
と反論したくなるかもしれませんし、実際反論する人もいますが、
では、その後の親の対応はどうかというと、
「先のことを考えたくない、刹那的な毎日を送っている人のいかにもとりそうな行動」をとっている人に、
いちばんやらないほうがいい言動、をとるんです。
「この先のこと」
これをいちばん考えたくない状態の人に、
「進路どうするんだ」
「親はいつまでも生きてないぞ」
「こんな生活、いつまで続けるんだ」
「甘えるのもいい加減にしろ」
「自立しないとだめだろう」
「自分のことくらい真剣に考えたらどうなんだ」
まあ、いくらでも浮かんできますが、全部、「いちばん無駄な言葉たち」です。
「先のことを考えたくない人」
という非常に重要なヒントがあるわけですから、そこを受け止めてやりとりするしかないでしょう。
逆に言えば、そのようなことを前提にすれば、コミュニケーションも成立するわけです。
私は、不登校やひきこもりに関する諸問題の多くが、
「状況理解の目盛りが大きいこと」にあると考えています。
細かい目盛りで読み解けていないのです。
たとえば、「進学・就職をどうするつもりなんだ!」は、
あまりにも目盛りが大きく、粗いのです。
「就学・就労・無職ひきこもり」の3種類で理解しているわけです。
もし、就学・就労を目指させたかったら、目盛りを小さくする必要があります。
「無職ひきこもり」の中にも多くのパターンがあって、
「就学・就労をしやすくなっている状態の人」を目指したほうがいいわけです。
「就学・就労をどうするつもりなのか」は「どうするつもりもない」んです。
「それどころじゃないから」です。
「いけるところまでいくしかない」わけです。
でも、そんな状態から就学・就労した人もたくさんいます。
また、少数ながら、ひきこもりでも経済的に不安なく、対人関係も必要十分で健康的な人もいます。
親御さんやご本人は、そのどちらかを目指すのでは?
だとしたら、質問すること自体、あまり意味はないんです。
子どもを責めているだけです。
「今は無職ひきこもりだけど、いずれ就学・就労する人」の場合、
どこかで何かが変わったはずです。
それは「就学・就労を妨げている不安や恐怖や無意味感が薄れること」と、
当座続けてきた
「趣味娯楽への集中を含む《いかにもひきこもり生活》での自己防衛策からの脱却の見込み」
ではないでしょうか。
不安・恐怖がないだけではなく、そこに「希望」があることが大切です。
「先々のことではない、日々の暮らしの中で対応可能な、不安・恐怖心を和らげ、
日頃の自己防衛策とは異なる行動の少しずつの積み上げ」は、
長く続けた習慣を変えるきっかけとして、とりかかりやすいもの、です。
そうでなければ、もっと目盛りの大きなハードルとリスクの高い行動になるでしょう。
ここで「たとえば」の例を出すと、「それをやればどうにかなるのか!」と
飛びつく人がいるので困るので、ここでは敢えて出しません。
「この方法をすればひきこもりでなくなる」のような簡単な方法はありません。
あくまで「目盛りを小さくして考える」のです。
「これなら通じる」という範囲でやりとりをする必要があります。
そして、子どもの当座の自己防衛策であるひきこもり生活パターンに
押し切られる親の場合、目盛りが大きいんです。
子どもに拒否されるような提案や言動が多すぎるのです。
「進学するか就職するか、どっちだ」では答えられなくても、
「昼ごはんはラーメンかチャーハンかどちからか」では答えられるでしょう。
答えが返ってくるやりとりしか前進しないのです。
子どもは「じゃあ死ぬ」「生きていても意味ない」「自分には無理」「めんどくさい」「しんどい」
いろいろな「やらない理由」を言葉にしたり、暴れたり、趣味娯楽に没頭したり、
自傷行為に走ったり、親を無視したり、わざと神経を逆なでするような言葉を発したり、
さまざまな、でもまあまあ似通った親への対抗策を繰り出してきます。
親が「自分には無理な要求を強要してくる存在」と認識すると、
「親をどう押し切るか」が大事な仕事になるからです。
押し切られる親は、わが子の「親を押し切らねば」という思いを
大きく育てているかもしれないわけです。
親はたしかにやたらと子どもに押し切られていいわけがありません。
子どもが自分を人質にとって親を従えるなど、良いわけがありません。
ただ、押し切られまいとするのならば、
もっと小さなところで踏ん張って欲しいと思います。
たとえば、「自分が使った食器は自分で洗う」というところは踏ん張らずに、
「ゲームは一日2時間まで!」では踏ん張っているとしたら、
前者で踏ん張ってもらいたいと思います。
押し切られれているのは、
過大な要求を飲み込ませようとして、目盛りの小さな行動は、
そのまま受け入れてしまっているという状態があるからではないでしょうか。
目盛りを小さくして「子どもに押し切られていない親」を探すと、
その親たちは、就学就労などは子どもに選ばせていますが、
「身辺自立や家事分担には厳しい」とか
「その日、その場でやればできること」では押し切られないようにしています。
「押し切られやすい親」は、その逆です。
たとえば「通信制高校の課題提出」はとてもうるさく言いますが、
子どもが食べたお菓子の袋やインスタント食品の残骸は自然に片づけてしまいます。
「外出練習や家事バイト」などは熱心に続けさせようとしますが、
ぞんざいな態度は黙って受け入れています。
だから、ホームエデュケーションが重要なのです。
「できていたこと・できること・できそうなこと」
を中心に関わっていくことが大切です。
そのため、親の中に「子どもに対する否定的感情」を生みやすいのです。
「いいえ、私は子どもを否定的に見たりしてはいません」とおっしゃる方も多いのですが、
では、言い方を変えましょう。
「子どもから見て、親から否定的に思われているように感じられる」のです。
つぎに、親が問題視するポイントは、要するに
「家の中で鬱々としていたり、自堕落に見えたり、不健康に見えたりする生活を続けていて、
ちっとも今後の自立に向けた行動が見えてこず、何をどう考えているのかわからないこと」
になりやすいと思います。
だいたい、何をどう考えているかといえば「本人が考えてない」ので、
親がわからないのは当然です。
ぱっと見ればすぐわkるはずなのです。
「先のことを考えたくない、刹那的な毎日を送っている人のいかにもとりそうな行動」
をしているのに、そのことがなぜかわからないのです。
「いやいや、親だからそんなことは百も承知だよ」
と反論したくなるかもしれませんし、実際反論する人もいますが、
では、その後の親の対応はどうかというと、
「先のことを考えたくない、刹那的な毎日を送っている人のいかにもとりそうな行動」をとっている人に、
いちばんやらないほうがいい言動、をとるんです。
「この先のこと」
これをいちばん考えたくない状態の人に、
「進路どうするんだ」
「親はいつまでも生きてないぞ」
「こんな生活、いつまで続けるんだ」
「甘えるのもいい加減にしろ」
「自立しないとだめだろう」
「自分のことくらい真剣に考えたらどうなんだ」
まあ、いくらでも浮かんできますが、全部、「いちばん無駄な言葉たち」です。
「先のことを考えたくない人」
という非常に重要なヒントがあるわけですから、そこを受け止めてやりとりするしかないでしょう。
逆に言えば、そのようなことを前提にすれば、コミュニケーションも成立するわけです。
私は、不登校やひきこもりに関する諸問題の多くが、
「状況理解の目盛りが大きいこと」にあると考えています。
細かい目盛りで読み解けていないのです。
たとえば、「進学・就職をどうするつもりなんだ!」は、
あまりにも目盛りが大きく、粗いのです。
「就学・就労・無職ひきこもり」の3種類で理解しているわけです。
もし、就学・就労を目指させたかったら、目盛りを小さくする必要があります。
「無職ひきこもり」の中にも多くのパターンがあって、
「就学・就労をしやすくなっている状態の人」を目指したほうがいいわけです。
「就学・就労をどうするつもりなのか」は「どうするつもりもない」んです。
「それどころじゃないから」です。
「いけるところまでいくしかない」わけです。
でも、そんな状態から就学・就労した人もたくさんいます。
また、少数ながら、ひきこもりでも経済的に不安なく、対人関係も必要十分で健康的な人もいます。
親御さんやご本人は、そのどちらかを目指すのでは?
だとしたら、質問すること自体、あまり意味はないんです。
子どもを責めているだけです。
「今は無職ひきこもりだけど、いずれ就学・就労する人」の場合、
どこかで何かが変わったはずです。
それは「就学・就労を妨げている不安や恐怖や無意味感が薄れること」と、
当座続けてきた
「趣味娯楽への集中を含む《いかにもひきこもり生活》での自己防衛策からの脱却の見込み」
ではないでしょうか。
不安・恐怖がないだけではなく、そこに「希望」があることが大切です。
「先々のことではない、日々の暮らしの中で対応可能な、不安・恐怖心を和らげ、
日頃の自己防衛策とは異なる行動の少しずつの積み上げ」は、
長く続けた習慣を変えるきっかけとして、とりかかりやすいもの、です。
そうでなければ、もっと目盛りの大きなハードルとリスクの高い行動になるでしょう。
ここで「たとえば」の例を出すと、「それをやればどうにかなるのか!」と
飛びつく人がいるので困るので、ここでは敢えて出しません。
「この方法をすればひきこもりでなくなる」のような簡単な方法はありません。
あくまで「目盛りを小さくして考える」のです。
「これなら通じる」という範囲でやりとりをする必要があります。
そして、子どもの当座の自己防衛策であるひきこもり生活パターンに
押し切られる親の場合、目盛りが大きいんです。
子どもに拒否されるような提案や言動が多すぎるのです。
「進学するか就職するか、どっちだ」では答えられなくても、
「昼ごはんはラーメンかチャーハンかどちからか」では答えられるでしょう。
答えが返ってくるやりとりしか前進しないのです。
子どもは「じゃあ死ぬ」「生きていても意味ない」「自分には無理」「めんどくさい」「しんどい」
いろいろな「やらない理由」を言葉にしたり、暴れたり、趣味娯楽に没頭したり、
自傷行為に走ったり、親を無視したり、わざと神経を逆なでするような言葉を発したり、
さまざまな、でもまあまあ似通った親への対抗策を繰り出してきます。
親が「自分には無理な要求を強要してくる存在」と認識すると、
「親をどう押し切るか」が大事な仕事になるからです。
押し切られる親は、わが子の「親を押し切らねば」という思いを
大きく育てているかもしれないわけです。
親はたしかにやたらと子どもに押し切られていいわけがありません。
子どもが自分を人質にとって親を従えるなど、良いわけがありません。
ただ、押し切られまいとするのならば、
もっと小さなところで踏ん張って欲しいと思います。
たとえば、「自分が使った食器は自分で洗う」というところは踏ん張らずに、
「ゲームは一日2時間まで!」では踏ん張っているとしたら、
前者で踏ん張ってもらいたいと思います。
押し切られれているのは、
過大な要求を飲み込ませようとして、目盛りの小さな行動は、
そのまま受け入れてしまっているという状態があるからではないでしょうか。
目盛りを小さくして「子どもに押し切られていない親」を探すと、
その親たちは、就学就労などは子どもに選ばせていますが、
「身辺自立や家事分担には厳しい」とか
「その日、その場でやればできること」では押し切られないようにしています。
「押し切られやすい親」は、その逆です。
たとえば「通信制高校の課題提出」はとてもうるさく言いますが、
子どもが食べたお菓子の袋やインスタント食品の残骸は自然に片づけてしまいます。
「外出練習や家事バイト」などは熱心に続けさせようとしますが、
ぞんざいな態度は黙って受け入れています。
だから、ホームエデュケーションが重要なのです。
「できていたこと・できること・できそうなこと」
を中心に関わっていくことが大切です。