回避行動を頑張る人 (その1)
案外、教育界・不登校界の「常識」って通用していないと感じます。
なぜかと考えてみましたが、それはたぶん「子どもによって違うから」です。
よく「ご褒美の有効性」が語られます。
「ご褒美が目当てになると逆効果」という人もいれば、
「自分はご褒美があるほうが意欲が増す」という人もいます。
これ、どっちも正解で、どっちも不正解なんです。
合わない人には合わないし、合ってる人には合っている。
また、「合っているときもあれば、合っていないときもある」。
で、私は「人それぞれ」という結論がキライです。
そこで話を終わりにしてしまうからです。
「どういう人にご褒美が合っていて、どういう人に合っていないのか」や
「ご褒美が合っているとして、どれくらいのご褒美ならいいのか、タイミングはどうか」や
「ご褒美が合わない人には、何が意欲を高めるのか」
など、ある程度の類型化をして考えていかないと、何も得られせん。
今回考えたいのは「回避行動を頑張る人」です。
私たちイーズは高校コースという通信制高校と提携したサポート事業をしています。
だいたい、通信制高校を選択する在宅型不登校経験者は、
「学力を高めたい」とか「卒業資格を得て進学したい」
とかいうことを最初の面接で言います(嘘をつかせたくないので面接をやめちゃいました)。
長く見ていると、おそらく最大の動機は「中卒が恥ずかしいから」です。
じつは在宅不登校経験者でも「勉強嫌いだから、中卒で働きたい」
と本気で言っていた人たちは、抵抗なくアルバイトをはじめ、
やがてフルタイムで働き始めるということが多かったです。
ただし、全体の1割くらいでしたが。
「中卒で就労を選択した人たちのほうが通信制高校進学者よりメンタルがタフ」
な印象があります。
「中卒が恥ずかしい」を動機とする人は、
「苦手を回避すること」の優先度が高いです。
たしかに、年齢が若いとゲームや趣味をすることに対する意欲は高い傾向がありますが、
行動原理としては「恥をかく可能性を排除すること」をもっとも頑張る傾向があります。
現実は、「それ自体が恥ずかしいじゃん」と見られてしまう傾向につながるのですが。
基本的に外向的(×外交的)で、自己評価が「外部評価」なんですね。
現状の本体単体では自信なく、外見やオプションで自信つくタイプ、です。
「回避に最大の行動力を発揮する」という人の場合、
ご褒美だなんだと言っても、「いやだ」「やりたくない」「やる理由がわからない」
「やるなら死ぬ」といった反応であれば、回避のほうがずっと優先順位が高いんです。
それくらい、恥をかくことを恐れているんですね。
それは、「そうではない人」には「ばかばかしい」くらいのことかもしれませんが、
本人からしたら「大ごと」です。武士のプライドのようなものかもしれません。
恥をさらすくらいなら、自滅するほうを選ぶ、くらいの勢いを感じることもあります。
実際、あんまり追い込まれてしまうと「死にたい」「死ぬ」と言います。
そのような傾向、つまり「回避行動を頑張る人」は、
「好きなことをしたらいいよ」とか「無理しなくていいよ」
の文脈では理解しきれないと思っています。
私は、「恥をかくことへの過剰な警戒心」に対しては、
フリースクールスタッフがよくやる「子どもを安心させる明るい受容的なアプローチ」が、
かならずしもヒットするとは考えません。
むしろ「そんな幼い子に対するような接し方をされて自尊心が傷つく」
ことすらあると思っています。
たいしたこともしていないのに「すご~い」とか「できたねぇ、やるじゃん」
なんて言われて、恥ずかしくなる感覚のほうが私は理解できます。
回避行動を頑張る人は、理想主義者とも言えますが、
高い理想を抱いているというよりも、現実の自分を恥じているところがあって、
「こいつを人前にさらすわけにはいかない」といった
「理想像が現実の自己像を抑制的に支配している」かのような状態ですから、
この人の判断のパターンとしては、
「より大きな人前で恥をかく場面を回避できる苦労」ならしようとするかもしれません。
ただ、それを選べないと「死ぬしかないか」と考えることもあります。
このような人は、まず、プライド防衛を尊重する必要があります。
「いいよ、それでいいよ~」ではなく、
「そういう前提を理解してサラリと受け入れる」感じ。
前提として受け入れると、
「プライドが傷つく場面が無い」という見通しに配慮するようになります。
たとえば「若いのにあまりにも外出しないことで運動不足が深刻だ」と親が考えたとします。
でも、誘っても頑なに出ない、とします。
それは「運動不足によるダメージより自分を人目にさらすダメージのほうが大きい」
ということが理解されていないからです。
そんなとき、理解している親は、たとえばこうです。
①なるべく人に遭わないように車で移動する。
②時間帯は夜で、学区を避ける。
③本人の興味関心があることを目的とする。
④実行した場合、ちょっとした報酬がある。
⑤実行しなかった場合、その興味関心があることができないというデメリットがある。
みたいなことを淡々と提案します。
ここで「なんでそんなにいちいち気を遣わなきゃいかんねん」と思ったとしたら、
そのような人は、よりリスクの大きな強制力を使うでしょう。
まあ、簡単ですよね。失敗すれば提案に乗らなくなるかもしれませんが。
大事なことは「まずは日常の行動パターンに小さな変化が導入されていくこと」です。
これをですね、「本人が自分から言い出すまで待つ」方式の人は、否定するわけです。
私は、それを自己責任化だと思っています。
本人が言い出すまで待つのであれば、「あとは待つだけ」にしてからです。
「効果が期待できるなら、リハビリくらいサポートしようよ」と思います。
あまりに強く過激な回避行動にあるのに、待たれても困ります。
どこかで深くプライドが傷ついた経験を抱えている可能性がありますから、
そこを理解して、慎重に、生活パターンが超消極化していかないように
小さな変化をつけていくことをお勧めしたいと思います。
決して下に見ることなく、持ち上げることもなく。
「過剰・過激な回避行動が安全を守っているわけでもない」
ということを脳が学習するため、です。
なぜかと考えてみましたが、それはたぶん「子どもによって違うから」です。
よく「ご褒美の有効性」が語られます。
「ご褒美が目当てになると逆効果」という人もいれば、
「自分はご褒美があるほうが意欲が増す」という人もいます。
これ、どっちも正解で、どっちも不正解なんです。
合わない人には合わないし、合ってる人には合っている。
また、「合っているときもあれば、合っていないときもある」。
で、私は「人それぞれ」という結論がキライです。
そこで話を終わりにしてしまうからです。
「どういう人にご褒美が合っていて、どういう人に合っていないのか」や
「ご褒美が合っているとして、どれくらいのご褒美ならいいのか、タイミングはどうか」や
「ご褒美が合わない人には、何が意欲を高めるのか」
など、ある程度の類型化をして考えていかないと、何も得られせん。
今回考えたいのは「回避行動を頑張る人」です。
私たちイーズは高校コースという通信制高校と提携したサポート事業をしています。
だいたい、通信制高校を選択する在宅型不登校経験者は、
「学力を高めたい」とか「卒業資格を得て進学したい」
とかいうことを最初の面接で言います(嘘をつかせたくないので面接をやめちゃいました)。
長く見ていると、おそらく最大の動機は「中卒が恥ずかしいから」です。
じつは在宅不登校経験者でも「勉強嫌いだから、中卒で働きたい」
と本気で言っていた人たちは、抵抗なくアルバイトをはじめ、
やがてフルタイムで働き始めるということが多かったです。
ただし、全体の1割くらいでしたが。
「中卒で就労を選択した人たちのほうが通信制高校進学者よりメンタルがタフ」
な印象があります。
「中卒が恥ずかしい」を動機とする人は、
「苦手を回避すること」の優先度が高いです。
たしかに、年齢が若いとゲームや趣味をすることに対する意欲は高い傾向がありますが、
行動原理としては「恥をかく可能性を排除すること」をもっとも頑張る傾向があります。
現実は、「それ自体が恥ずかしいじゃん」と見られてしまう傾向につながるのですが。
基本的に外向的(×外交的)で、自己評価が「外部評価」なんですね。
現状の本体単体では自信なく、外見やオプションで自信つくタイプ、です。
「回避に最大の行動力を発揮する」という人の場合、
ご褒美だなんだと言っても、「いやだ」「やりたくない」「やる理由がわからない」
「やるなら死ぬ」といった反応であれば、回避のほうがずっと優先順位が高いんです。
それくらい、恥をかくことを恐れているんですね。
それは、「そうではない人」には「ばかばかしい」くらいのことかもしれませんが、
本人からしたら「大ごと」です。武士のプライドのようなものかもしれません。
恥をさらすくらいなら、自滅するほうを選ぶ、くらいの勢いを感じることもあります。
実際、あんまり追い込まれてしまうと「死にたい」「死ぬ」と言います。
そのような傾向、つまり「回避行動を頑張る人」は、
「好きなことをしたらいいよ」とか「無理しなくていいよ」
の文脈では理解しきれないと思っています。
私は、「恥をかくことへの過剰な警戒心」に対しては、
フリースクールスタッフがよくやる「子どもを安心させる明るい受容的なアプローチ」が、
かならずしもヒットするとは考えません。
むしろ「そんな幼い子に対するような接し方をされて自尊心が傷つく」
ことすらあると思っています。
たいしたこともしていないのに「すご~い」とか「できたねぇ、やるじゃん」
なんて言われて、恥ずかしくなる感覚のほうが私は理解できます。
回避行動を頑張る人は、理想主義者とも言えますが、
高い理想を抱いているというよりも、現実の自分を恥じているところがあって、
「こいつを人前にさらすわけにはいかない」といった
「理想像が現実の自己像を抑制的に支配している」かのような状態ですから、
この人の判断のパターンとしては、
「より大きな人前で恥をかく場面を回避できる苦労」ならしようとするかもしれません。
ただ、それを選べないと「死ぬしかないか」と考えることもあります。
このような人は、まず、プライド防衛を尊重する必要があります。
「いいよ、それでいいよ~」ではなく、
「そういう前提を理解してサラリと受け入れる」感じ。
前提として受け入れると、
「プライドが傷つく場面が無い」という見通しに配慮するようになります。
たとえば「若いのにあまりにも外出しないことで運動不足が深刻だ」と親が考えたとします。
でも、誘っても頑なに出ない、とします。
それは「運動不足によるダメージより自分を人目にさらすダメージのほうが大きい」
ということが理解されていないからです。
そんなとき、理解している親は、たとえばこうです。
①なるべく人に遭わないように車で移動する。
②時間帯は夜で、学区を避ける。
③本人の興味関心があることを目的とする。
④実行した場合、ちょっとした報酬がある。
⑤実行しなかった場合、その興味関心があることができないというデメリットがある。
みたいなことを淡々と提案します。
ここで「なんでそんなにいちいち気を遣わなきゃいかんねん」と思ったとしたら、
そのような人は、よりリスクの大きな強制力を使うでしょう。
まあ、簡単ですよね。失敗すれば提案に乗らなくなるかもしれませんが。
大事なことは「まずは日常の行動パターンに小さな変化が導入されていくこと」です。
これをですね、「本人が自分から言い出すまで待つ」方式の人は、否定するわけです。
私は、それを自己責任化だと思っています。
本人が言い出すまで待つのであれば、「あとは待つだけ」にしてからです。
「効果が期待できるなら、リハビリくらいサポートしようよ」と思います。
あまりに強く過激な回避行動にあるのに、待たれても困ります。
どこかで深くプライドが傷ついた経験を抱えている可能性がありますから、
そこを理解して、慎重に、生活パターンが超消極化していかないように
小さな変化をつけていくことをお勧めしたいと思います。
決して下に見ることなく、持ち上げることもなく。
「過剰・過激な回避行動が安全を守っているわけでもない」
ということを脳が学習するため、です。